2016年10月31日

10時間宇宙の旅

部屋の中がさむすぎるから、電気毛布つかいだした。
ひとつはベッドで敷き毛布タイプの。
それが古くなったやつを、部屋でひざ掛けとしてつかってる。

ちょっとの「暖」があるだけで、カラダがしあわせなかんじになる。



きのうはやっぱり、ぱそこんなんて1分も触れなかった。
ピグももう10月のイベント終わりだよねー。
今回のイベントはいちどもログインしてないから、無料がちゃだけでもひいておきたい、っておもったけど(ライフのがちゃはいろいろすごいかわいいから)、けっきょくそれすらやらなかった。

ピグをやらなくなってから、ピグをやる時間をつくりだすことが「到底ムリ」みたいな感覚になってる。
なんでわたし、こんなに一日の時間が足りなさすぎる感覚に追い込まれてるんだろ。

ほんとに仕事とかで超絶多忙な有能な人、って、一日にやっていること、がわたしの何倍もある。
それなのに、ツイッターで遊びのツイートしてたり、寝不足や時間不足を嘆いてる発言なんていちども見かけなかったり。

夜勤がある日とない日は、じぶんの一日のタイムスケジュールがぜんぜんちがう。
睡眠時間もまいにちとれる時間帯がちがう。

アクセのお仕事(これがいまいろいろすごい規模で展開してる)と書くお仕事とバイト。
収入源を複数持つことは、わたしにはこころの安定になる。
固定費はバイト代で、ってことにしてるから、今月働いた分来月の家賃や光熱費はちゃんと払える、っていう安心感も得れてるし。

でも、同時3業種進行、の日々は、わたしがひとりしかいないといろいろきつい。
わたしがときどきふたりは必要になる。

それだからって、ものすごい稼げてお金持ちになっていくわけじゃなくて、半端に稼ぎが増えると来年の税金がこわくなるし。

少し多めの収入があっても、この先なににつかうかわかんないからだいたいはそのままとっとく。
それで、だいたいは車が壊れたりわたしが壊れたりして、その修繕費で消える。
さいきんのわたしの医療費、すごいことになってるし。
進行開始になった持病が、どんな状態か、っていう検査がいろいろありすぎて、ものすごいお金かかってる。
そういう検査受けないと治療方針も決まらない。

だけど気がラクになることもあって。
中高年ぐらいになるじぶんの暮らしの心配はしなくていい。
いまの車のつぎに中古車買ったとして(新車なんて買えないもん)、そんなかんじで車っていつまで買い換えていけるだろう、って悩んだけど。
あ、そうか、何台も買い換える必要ないんだ、って気づいて、気がラクになった。

暫定的に生きて、暫定的に暮らしてる、そんなかんじ。



いろいろ生活には恵まれているお祖母ちゃんが、生きるには人生長すぎる、って言ってる。
60歳になったときに、もういつお迎えが来てもいい、ってホンキでおもったんだって。
だから、健康に気をつけないで好きなもの食べて好きなことして、そしたらたーくさん長生きしちゃって、癌が見つかったとき、「やっと死ねる」ってうれしかったんだって。
でも、年とってると癌の進行ってものすごい遅くて、治療なんて全放棄したのに体調もぜんぜん悪化しなくて、健康体とそんなにかわんない感じで数年暮らしてるから、「まだ死ねないんですか」って病院で聞いちゃうんだって。

生活のお金の心配がないし、多少の贅沢はできるから、まいにちだらだら生きててもいろいろたのしいことありそう、ってわたしはおもったけど。
お祖父ちゃんが死んだあとは、ひとりでたのしんでも、そのたのしみになんにも執着がないんだって。
お祖母ちゃんはものすごい多趣味で、まいにちいろいろ忙しく生きてる。
ボランティアやって、還暦すぎて登山もやって、海外もいろいろ行って、地方にいる友だちや知り合いのとこにどこにでもすぐ遊びにいって、いろんなお芝居見て、いろんな映画見て、いろんな本読んで、いろんなとこで飲んで、そういう場所でいろんな著名人の友だちができて(お祖母ちゃんが飲み歩いてるお店って作家や舞台関係の人たちが出入りしてるような飲み屋さんばかりで、すぐ友だちになってくるの。だから年賀状とかすごい人たちからいろいろ来ててびっくりする)、犬飼ってるからまいにちお散歩もして、いまでも家事はぜーんぶじぶんでやって、冷蔵庫にはたーくさんの高級食材ぎっしりで、わたしたちが遊びに行くとすぐにそれでおいしい料理をつくってくれて。

でも、早くお迎えきてくれないかなー、っておもうぐらい、人生はたのしいけど長すぎる、んだって。

来年ぐらいにはもうそろそろ癌でお迎えきそう、って言われたとき、わたしはものすごい泣いたけど。
お祖母ちゃんは、ぜんぜんかなしいことじゃなくてじぶんにはほっとしてることだから、泣かなくていいの、って言う。
遺された人は、「いなくなるさみしさ」がつらいかもしれないけど、逝く人はじぶんにいちばんいい死に方ができたらしあわせなんだよ、って。

だれかの死がかなしいのは、遺されたじぶんがかなしい、ってことなんだよね。
お母さんは、死ぬにはまだ早い年だとわたしはおもうけど、お母さん自身はじぶんが死ぬことにものすごい納得がいってて。
だから、お母さんも再発がわかってから、治療はすべて放棄してた。
(結果的にはカラダにきつい治療をやらなかったことで宣告された余命以上は生きれたし、痛み止めだけで死ぬ直前までフツーの日常を自宅で送れてた。副作用のきつい治療したら、こんな穏やかな闘病生活はムリだったとおもう)
余命宣告されたあとでも、お母さんはぜんぜん不幸なかんじじゃなくて、わたしね、お母さんはしあわせに死ねたんだとおもってる。

わたしたちのためにもっと生きて、っておもわなかったわけじゃない。
でも、治らない病気になってしまったなら、その人がいちばん望むようになってほしい、とおもう。

人生はすべてがじぶんの望みどおりになるわけじゃなくて。
だから、常にしあわせなわけじゃない。
だけど、じぶんの「死」を受けいれることができる「死」は、ものすごいしあわせなことだとわたしはかんがえる。

死にたくなくて死んでしまうことのほうが、たぶん、圧倒的に多い、のだから。

ゆうべもドライブして。
真夜中の海沿いをずっと走ってて、いろいろまた、わたしの世界からいなくなった人たちのことかんがえて。

お母さんが死んだ日のこと、おもいかえして、ぼろぼろ涙が出た。

さみしいよ、さみしいよ、さみしいよ、さみしいよ。

って。
ものすごい叫んで、地団駄踏みたくなる。

でも、そういうものなんだよね。
生きる、って。

生きるってことは、いつかは死ぬってこと。
そんなあたりまえのことに、人は感情を揺るがす。
その感情でもって、じぶん以外の他者の存在を認知する。

このかなしみのつらさを、どうやってかかえて、人は生きていくの?

じぶんが経験したいくつかの「死別」で、そうおもうことがあるたびに、そういうものをかかえて生きること含めたものが「わたしの人生」パック、なんだとおもう。

ひとつのきれいなこたえ、なんて見いだせるものではない。

かなしい瞬間。
かなしい瞬間。
かなしい瞬間。

わたしの人生にそういうものがいくつかあって。
それがフラッシュバックのように、じぶんに蘇ることがあって。

そんな体験をしてまで生きてる。
そういうじぶんの命に嫌悪もする。

生まれてすみません。
なんてのは、じぶんしか見つめてない、って、いまはおもう。

じぶんが生まれると、人の生死を見る。
生まれてきたことはじぶんの意思でなくても、じぶんが生きたり死んだり、なんて、じぶんで好きにできる。
他人の生死は、じぶんではどうにもならない。

じぶんの「生」には、他人の生死も関与する。
人が生まれて、人が生きて、人が死んで。
そのどれもと無関係でいれる人生なんて、じぶんが生きる限りは、ない。

こんなに人の重たいものを見ることもじぶんの人生。
ほんとに軽く生きたければ、だれの生死にもじぶんが揺るがない位置を確保するしかない。

孤独なようで、そこまで孤独になれないわたし。
人の死、は、確実にわたしに影響があって、じぶんの死も、だれかにあまり影響あたえないような注意が必要になる。



ゆうべはまたあたらしいドライブコースを開拓した。

辻堂海岸から134号線を箱根側じゃなくて葉山側に走って、ただひたすら134号を行く。
七里ヶ浜あたりから海岸はすぐ道沿いで、ものすごい海が近い。
ラジオを消して窓を開ければ波の音が聞こえる。

途中で寄ったコンビニには、鎌倉ビールや江の島ビールが売ってた。
500円だったからわたしはちょっと手が出せなかったけど(柑橘系っていう味もちょっと苦手だったから)、かわいいラベルの瓶ビールで、すっごいオシャレ。

チェ・ゲバラのデザインのタバコなんていうのも売ってた。
オマケのライターもチェ・ゲバラなの。
タバコ吸わないけど、なんかほしかった。(でも買わなかったけどー)

あっちのほうのセブンでは神奈川デザインのナナコカードが売ってた。
これもちょっとほしくなった!

とにかくずーっと134号を行くんだけど、城ケ島の方向の道標が出たとこでそっちに向かう。
城ケ島に渡る大橋は有料だけど、夜中は無料?(ぜんぜん料金払わないで渡れた)

灯台に行きたかったけど、車がはいれるのは途中までで、そこから結構歩くようになってた。
真夜中は駐車場は停めれるようになってたけど、さすがにオンナ一人で歩くのこわくてやめた。
ここは昼間に来るべきだよねー。

ラジオで野村訓一さんが言ってた「三浦半島で車停めて結構歩いて到達した岩場の灯台」って、ここの灯台だとおもう。

仕方ないからまた大橋を通って戻って、橋渡ったすぐのとこを右側(島から戻った向きで)の道入ると、半島を剣崎のほうをぐるっと海沿いでまわれる道を通れる。
ここがすごいステキ。
真夜中だとだーれもいないの。
「日本のプチ果て」きぶん、味わえる。
こわいぐらい。
ぜんぜんコンビニもないのに民家はぽつぽつあって、ここらへんの人たち、夜はどこにも買い物行けないねー、っておもう。

とにかくずーっと海が近くて、山道になると真っ暗な海とその対岸のキラキラした夜景が見えて、ものすごい絶景。

そこからまたカンタンに134号に戻れて横浜→東京方面に向かえる。

こんなステキなドライブコースあったんだー、って狂喜乱舞して走ってきた。
昼間はどれぐらい混むとこなのかわかんないけど、昼間にもぜったい来るべき場所だとおもう。

三浦半島、灯台めぐり


わたしが見た「対岸の夜景」は房総半島のかな。

城ケ島に渡ると、真夜中はなんにもやってるお店はなかったけど、海産物のお土産とか食べるお店が商店街みたいになってた。
ここでゴハン食べて灯台までお散歩、っていうの、やってみたい。

わたし、三浦半島って子どものころ、お父さんに連れられて来たことある。
っていう記憶も蘇った。
(だから、お母さんとの記憶までいろいろ蘇って、ぼろぼろ泣きながら走ってたんだけど)

一晩ちょっと走っただけで、まだまだいろんな「すごい場所」がある。
まだぜんぜん侵攻してない地域もあるし。

遠くに旅に行かないわたしは、近場で一夜の旅をする。
これ、すごいたのしいよ。
ほんと。

わたし、そういう仕事したい。
外に出れない人たちを、一夜のすごい旅、に連れてく仕事。
10時間で、宇宙の果てまで見てきたきぶんになれる。









これ。
ベートーヴェンの月光の一楽章がベースになってるよね?(なってない?)
野村訓一さんのラジオで流れてたの。
あー、これ、ピアノが月光ベースだよねー、って聞いてておもったの。


posted by ぴの at 14:50| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月29日

春前に着てた冬物をいま洗うだらしない人のにっき

あ、そうだ。
恋愛映画のこと、書くつもりで書きかけてる記事が下書きに放り込まれたまま。
読んだ本の感想もブクログに「ブログに書く」って書いたまま、だし。

って、いろいろ書く書く詐欺な発言してたのをときどき思い出すけど、そういうときにはぜんぜん書く気力が湧かないから、詐欺継続中、になってる。



まいにち書くほどのネタはないねー。
なんて、きょうも編集画面を開いておもう。

でも、せっかく開いたから、なんか書く。



カウンターのまえにぎりぎりふたりしか立てない狭いクリーニング屋さんに行った。
先客のおばさんがいたから、そのすぐ後ろに並んだけど、それだと自動ドアが開いたままだった。

ぴゅーぴゅーすごい風だったから、それじゃ迷惑だねー、っておもって、外に出て待つことにした。
でも、ドアの真ん前にいるとドアが開いちゃうから、開かない位置を探してたら、ドアから斜め後ろの位置になった。

わたしのあとにお客さんが数人並んだ。
その人たちはドアからだいぶ離れてたから、ドアの真正面に並んでた。


ss161029a.png
こんなかんじ。


中にいたおばさんのお客が出てきたから、わたしが入ろうとしたら、店員さんは、
「お、つ、ぎ、の、か、た!どうぞ♪」
って、わたしを睨んでから、わたしの後方の真正面で並んでる人たちに声かけた。

「つぎ」はわたしだし。
だから、わたしが入ろうとしたら、「並んでる人からです!」って怒られた。

「あ、わたしがつぎなんです。でもドアのまえにいるとドアが開いちゃうから、ここで待ってたんです」
って説明したら、わたしの次に並んだおばさんが、すたすたお店に入ってった。
その人が正解で、わたしが割り込み、みたいになって、「並んでくださいね。みなさん、並んでるんですよ」って店員さんにすごいつめたい口調でお説教もされた。

なんかはずかしくなったけど、はずかしがる理由、ないじゃんー、ってじぶんにおもった。
わたし、ドアが開かないように気をつかったつもりだったのに。

だけど、後ろに何人も並んでたから、そのいちばん後ろにつく気にはなれなかった。
それやったら、じぶんが割り込みを認めたことになるよねー、っておもったから。

もういいや、って、クリーニング出すのを諦めて、駐車場の車に戻ろうとしたら、「諦めたらダメだよ」って、つぎに並んでたおじさんが声かけてきた。
「ちゃんともっと強く言わないと」
ってわたしに言いながら、そのおじさん、お店に入って、わたしが二番目の人だって店員さんに説明してくれた。

わたしのあとなのにお店に入ってったおばさんからも、「あなたがつぎなら、あなた、ちゃんと言わないと」って言われた。
えー。言ったし。
それに、わたしがドアの斜め後ろの位置に並んだの、見てたじゃん。
っておもったけど、あなたが中に入らないからじぶんが入ったのよ、って言われて。

店員さんは、じぶんの勘違いをものすごい謝ってくれた。
「あらあらー、ごめんなさいねー。勘違いしちゃったー」って。

それで、そのおばさんのあと、わたしが受け付けしてもらった。
わたしの先に入っちゃったおばさんは、帰る時、「あなたの態度がわかりにくかったから、わたしが先でいいとおもったのよ」って、ちょっとむっとしたように言ってから、「ごめんね」ってやさしい口調で謝ってくれた。

それだけ。

それだけの出来事だけど。
わたし、なんかこういうの、日常のささやかなしあわせの場面、ってかんじがした。

「勘違い」から、いろいろ怒られたけど。
その「勘違い」を気づいてくれた人がちゃんといて。
その「勘違い」を謝ってくれた人がいて。

でも、謝りながら、勘違いさせたあなたがわるい、っていう文句もちゃんと告げてきて。

いろんな感情が交錯したけど、でも、だれかだけが不快な立場においやられるわけでもなくて。
加害者と被害者、みたいに分かれてなくて。

このまえのサイゼのときみたい、っておもった。
あのときみたいに、ちいさい子のすごい泣き声にだれからも不快な感情が湧かなかったわけではない場で、だけど「不快」とか「迷惑」っていう明確な基準でそこにいた人たちが被害者と加害者に分かれたりしない。

いろんな種類の人の感情が、どれかがどれかを打ち消す強さを持つことなく、ぜんぶごちゃ混ぜに漂う。
その中で、なにかしらのしあわせ、もかんじる。
わたしに「諦めたらダメ」って声かけてくれたおじさんの存在とか。
ごめんね、って、勘違いを認めてくれた人たち、とか。

わたしはむかついたり傷ついたりしないで、なんかほわほわした緩い感情で帰ってこれた。
勘違いさせるような態度をしたじぶん、っていうのも、反省できた。

さいきん、おもう。
ネガティヴな感情ほど、それ一種類だけをいだくことは、じぶんをものすごい蝕む、って。

怒りとか、傷心とか。

じぶんの中に多種の感情を同時に持つ、っていうのは、じぶんをひとつの感情から解放する、ね。
いろんな他人の多種の感情が漂う場も、ぴりぴりした空気より、ゆるゆるな弛緩を味わえると、外に出ることもわるいことばかりじゃない、ってきぶんになる。


posted by ぴの at 16:43| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月28日

Ooh La La

さむいー。
暖房つけたいー。

って、帰ってきたばかりの家の中で震えて、冬用のパーカーを重ね着したら、ぜんぜんさむくなくなった。
まだそんな程度のさむさ。



見た目はきれいだったのに、ぜんぜんおいしくないプチトマトを買っちゃった。
サラダ的にそのまま食べつづける気がしなくて、パスタのトマトソースにしちゃおう、っておもって、それ作ってみたけどやっぱりぜんぜんトマトらしい風味はしなかった。
ただのトマト色チキンスープ味、みたいなかんじ。

風味が抜けてるトマトって、栄養分も抜けちゃってるのかな。

プチトマトは、わたしは中がじゅくじゅくになっちゃってるのは好きじゃなくて。
だから熟しちゃったプチトマトは、スプーンで雑に潰して、オリーブオイルと塩をちょっとかけて、それをパンにつけたりソルトクラッカーに乗せてオーブントースターで焼いて食べるのが好き。

でも、そんな食べ方ができる風味もなかったから、「おいしくないトマト」のなんか上手な使い方がおもいつかなかった。

そんな程度の自炊力。



あ、10月ももう終わっちゃうから、早く100円ショップに来年の手帳買いにいかなくちゃ。
来年も100均のでいいの。
だってこの一年(まだ2か月残ってるけど)、ぜんぜんそれで困らなかった。

それぐらい、ちゃんとした手帳だった。

100均のノート類、ほんと、すっごいかわいくてセンスよくて。
ポメラに打ち込むまえ段階の仕事用のネタ帳としてつかってる、すごいお気に入りのノートがある。
書くお仕事の知り合いに、それどこで買ったのー、って聞かれて、100均のだよー、っていうと、そんなちゃんとしたノートが売ってるんだー、ってびっくりされた。
デザインがかわいい、ってだけじゃなくて、ちゃんとしっかりしたつくりになってたりするんだよね。

表紙もやすっぽくなくて、紙質もわるくなくて。
厚いボール紙の表紙のリングノートは、机とかなくても書けるからすごいベンリ。
カバーつきノートは、カバーに附箋とかはさめるようになってたり、機能性も優れてて。

手帳は表紙のデザイン的にアナスイのがほしい、っていつもおもうけど。
ああいう女子向けのオシャレ手帳って、なかみがぜんぜん手帳としてベンリじゃないよね。
なかみはごつごつな高機能な手帳だけど、表紙は女子向けブランドデザイン、っていうのがあればいいのに。



詐欺、ってカンタンだねー。
っておもう現象を、さいきんある場所で見てる。

フツーに社会人として自活してる人なら、その人のいろんな話の不自然なぶぶんやあり得ないぶぶんに気づくとおもうんだけど。
表面的にそういう突っ込みはぜんぜん見えなくて、「その人の話」をいろいろとそのまま鵜呑みにしてる人がおおく表面的に可視化されてて。

なんかすごいあり得ない設定を騙る人は、その話を信じた人たちから、金銭的な利益を得てる。

こういう図式を「詐欺」だとおもうんだけど。わたし。

オトナの社会がまだぜんぜんわかってないコドモがつくレベルの騙り。
それでも、その話を信じるオトナたちがいて、お金があるオトナはその騙り手にじぶんのお金を流す。

ただ、好き勝手につくり話をしてるだけなら、そんなのは言論の自由の範疇だとおもうけど。
金銭的な利益を得るための騙りだとおもうから、それは詐欺とおなじだよねー、ってわたしはかんじてる。

人を騙してお金を稼ぐ、ってことのハードルはけっして高くはないんだろうね。
あまりあたまがよさそうにかんじないウソでも、それを信じる人たちがいて、そこからお金をしぼりとれる。

作家は創作の物語でも小説にあまりデタラメなことを書けない。
あり得ない設定の「現代社会」を舞台した話を書けば、いろいろと突っ込まれる。

だけど、リアルな詐欺、って、ものすごい狭い視野の中で成功しちゃう。
100人の人がいても、100人とも騙す必要はないから。
99人から「ウソつき」っておもわれても、1人だけが鵜呑みにしてくれれば、その1人のことだけ騙しきれば利益を得れる。

オレオレ詐欺がなくならないのも、おおくの人たちがそんな犯罪に騙されなくなってきても、ただひとりだけ騙されちゃうお年寄とかがいれば、そこで1億ぐらい稼げちゃう犯罪だからねー。



まいにちブログ更新、っていうのを、ちょっとやってみようかな。
なんてこと、さいきんおもう。

ブログにテーマもなにもなくただだらだらと好きなこと書く、っていうことすら、さいきんは頻度が落ちてるから、もっと書くクセをつけておきたい、っておもったから。

わたし、リアルでどんどん病的に、「じぶんの話」をしなくなってる。
深い個人的な話はするのやめよう、っておもった日から、だんだんとそれが「浅い」範囲まで広がってきて、とにかくじぶん語りをしなくなって、気づいたらもうじぶんの話をじぶんからする、っていうのがめんどくさくなった。

人がなにか雑談してきて「あー、わかるー、わたしもー」ってかんじで、じぶんの話もする、っていうぐらいはフツーにやってた。
それが、さいきんはそれすらもだんだん「わたしもー」って共感したあとで、その「わたしの話」まではしなくなった。
そしてそのうち、ときどき「わたしもー」っていう共感を示すことすらめんどくさくなってきた。

ここまでくると、人とまともな対話がなりたたなくなるレベル。
人がなに話しても「へー」「ふーん」「そーなんだー」っていう反応しかしなくて、そこに「それでどうしたの?」って、もうすこし深く掘り下げた好奇心すらめんどくさいから湧かせなくて、じぶんの話もしなくて、ただ相手の話すことを自動的に聞いてるだけ、になる。
相手もニンゲンだから、反応が薄い人に話しつづけてもつまんなくなるとおもう。
そのうち、わたしは人から雑談も振られない存在になりそう。

友だちからのメールも。
なんか話題が振られてると。
それに対するわたしの返信が「おー」「すごいー」「やったねー」「どひゃー」ってだけタイトルだけで終わってる。
本文は絵文字ひとつだけ、とか。
じぶんでも見直すとひどいとさいきんおもう。

そのうち、だれからもメール来なくなりそう。

だからって、それに焦りはなくて。
人と距離おかれることが「ラク」だとおもうようになったら、やっぱりなんかいろいろよくない気もする。
でも、その「よくない」っていう感覚も、わたしの中の「社会性の教科書」に書かれてることだけで、わたし自身のかんがえそのものではない気がする。

それなのに、じぶんのかんがえ、っていうのは常にいろいろあたまの中にもくもく湧いて。
それを整理するために言語化が必要、とはおもってて。

まえから書いてるけど、わたしのあたまの中は思考がぜーんぶ映像化されるので。
整理つかないモヤモヤしたかんがえは、マーブル模様になったりサイケデリックな映像になったり。
映像化されないあたまだと、ちゃんと「思考」は言語で脳内に存在するんでしょ。
それだとあたまの中でちゃんと整理したり編集しやすいよねー。

それだと余計になーんにもあたまの中が整理できなくなるので、言語化、って必要。
それやるためには、思考をあたまの外に出す必要がある。

人と話すコトバがなくなってくれば、あとは文字化、しかないよねー。

だから、このなかみのぜんぜんないブログ更新、ちょっと頻度あげてみるかなー。
っておもった。

あしたも書けそう。

だけど。
日曜はぱそこんつけてるヒマが1分もないとおもう。
月曜はわかんない。
来週はいろいろすごいいそがしい。

できない言い訳ばかり並べたてる非生産的な文字はつらつらとあたまからこぼれでる。

そんじゃーの。

ほんとは、いま読んでる本とか買った本のこととかも書きたかったけど、出かける時間なのぢゃ。(別所さんのマネ)







このMV、映像も音もすごいカッコイイ。


posted by ぴの at 16:34| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする