2016年12月31日

死体が転がる小説読んで死体を転がしてみたくなる年末

なにもしてないのにことしが終わった。(なにもしてないのにぱそこんが壊れた的)



白昼の悪魔 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫) -
白昼の悪魔 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫) -

これ読んだ。

『地中海殺人事件』っていうタイトルで映画化もされてる。
ずーーーーっとまえに、親といろいろクリスティの映画みたけど、たぶんこれもはいってたとおもう。
元女優が殺された、っていう事件はおぼえてるから。

でも。
ぜんぜん犯人がおもいだせなくて、ストーリーもぜんぜんおぼえてなくて、映画の記憶がほとんど残ってなかった。
ナイル殺人事件とかオリエント急行のやつはだいたいおぼえてるのに。

どんな話だっけー。
って、原作を読んでみたけど。

これは地中海の高級リゾートホテルが所有してる小島が舞台で、そこにいろんなお金持ちの人たちがバカンスで滞在してて。
その中にポアロのおじさんもいて。

この小島の地図がちゃんと図解で描かれてるから、だれがどこに行った、っていう文章の説明もちゃんとわかりやすくなってる。
小島の地図がなければ、この物語、舞台の地形を文章だけで想像するのはむずかしいかも。

小島は陸地と「渡り道」でつながってて歩いて渡れるけど、満潮のときは海面の下になっちゃうから、そのときはボートで渡る。

こういう干潮のときだけ出現する「道」を、トンボロ現象っていうんだって。

海に道が出現!干潮時に陸続きになるトンボロ現象の島々


小島じたいが、外部から人が侵入しにくい、っていう設定をつくってるから、物語はホテルに滞在してる限られた人たちのことを中心に進行してく。
殺されちゃった被害者も、ホテルに滞在してた人。

元女優で、ものすごいセクシーな美女。
結婚した夫とその連れ子の娘と三人家族での滞在。

でもこの元女優の人は、ものすごいセクシーだから男がすぐいろいろ寄ってきて、そういう男たちとすぐ浮気しちゃう。
家族と滞在してる小島でも、おなじホテル客で妻連れのイケメンと浮気。
だれの目から見ても「不倫中」があきらかだから、イケメンの妻は傷ついちゃうし、元女優の夫はモヤモヤしちゃうし、周りの人たちも浮気性の元女優にぜんぜんいい感情を持たなくて。

お金持ちたちの優雅なリゾート地の小島に不穏な空気が漂って、ポアロもそういう状況を警戒してて。

ってところで、この元女優が殺されちゃう。

真っ先に疑われたのは、浮気されたイケメンの妻か、浮気された元女優の夫。
でも、どっちも証人がちゃんといるアリバイが強固で、犯行はぜったいムリ。

じゃあ、だれが犯人なのー。
って、警察とポアロはいろいろ捜査をはじめるけど、そのうち犯行現場の近くで麻薬の取引の痕跡を見つけて、犯人は小島の外からやってきた麻薬の売人?っていう疑惑に展開。

勿論、犯人を突き止めて事件を解決したのは警察じゃなくてポアロのおじさん。


さいしょから、小島に滞在する人たちぜんいんのいろいろな状況が読者にもわかりやすく書かれてて、殺人事件の謎解きを読者もいっしょにやれるようになってる。
だから、わたしも、いろいろ「犯人はだれー」ってかんがえながら読んだ。

途中である人の「証言」にわたしは疑惑が湧いて。
あれ、この人の言ってること、ウソ、だよね。
っておもった箇所があったの。

それで、わたしは「犯人」がわかっちゃった。

なーんだ。
わたしなんかでも犯人がわかっちゃう程度のミステリじゃんー。
クリスティってこんな甘い設定の話もあるんだねー。
多作だから、中には駄作があってもフシギじゃないけどー。
でも、これ、映画化されてるぐらいだから、もう少しちゃんとしたミステリかとおもったー。

って、途中でちょっとがっかりした。


そしたら。



わたしの「犯人は……あの人だ!(コナン調)」は、見事にー。
はずれてたー。
(^_^)


クリスティはわたしなんかにカンタンに謎解きさせてくれない、ちゃんとすごい作家だったー。


えー。
えーえー。
えーえーえー。

って、いう犯人だった。



そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫) -
そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫) -

このまえ、人の家でこの『そして誰もいなくなった』のテレビドラマを録画したやつを見せてもらった。
恐竜おじさんが出てたやつ。
(ジュラパ1のアラン・グラント博士、ね)
エイリアン3のリプリーとえっちしちゃったお医者さんも出てた。

でも、その録画、3部作なのに最後の3話目だけ録画に失敗しちゃったらしくて、2話までしか見れなかった。

犯人はー。
犯人はー。
犯人はー。

2話までだと、まだぜんぜんぜんいん殺されてない。

この話、不登校時代に本で読んだから、ちゃんと犯人知ってる。
えー、えー、えー。
って、これもものすごいびっくりした結末だった。

ぜんぜん犯人がだれかわかんないミステリだよねー。

でも、犯人はあれかー、すごいー、こんな事件すごいー。

って、クリスティってものすごい天才、っておもった作品。

それぐらい「びっくり」して「感嘆」した記憶は鮮明にあるし。
犯人がどうやったか、っていうのも、ちゃんとおぼえてるのに。

なんでかその「犯人」がだれか、っていうのをきれいに忘れてた。
ドラマ見ながら、犯人がぜんぜんおもいだせなくて、「そして誰もいなくなった」方法だけおぼえてるのにー、って、じぶんのあたまにびっくりした。

犯人はだれなのでせう。
3話目、再放送してくれないかなー、って、録画に失敗しちゃった人が言ってたから。
再放送してくれたら、3話目もみせてもらう約束した。

再放送してー。


ものすっごーーーーい大量のミステリを書いてるクリスティは、なんでこんなにたーくさんのナゾナゾなストーリーをおもいつけるんだろー、って尊敬する。
何作も書いてるミステリ作家って、みんなすごいとおもう。

わたしがフォローしてる小説講座をやってる作家さんが、取材や設定をきちんとできない人が純文学を書きたがる、みたいなことつぶやいてた。

https://twitter.com/kiichiros/status/561142351196721153

↑このツイート。

ミステリを書ける人、にキョーミを持つのは。
わたしには、「ミステリのプロットの作り方」がぜんぜんわかんないから。

https://twitter.com/kiichiros/status/676287019606147072

↑おなじ方のツイートで、ミステリの書き方。

「死体を転がす」とこからはじめるわけだねー。
つまり、だれを死体にするか、ってとこからかんがえるわけだねー。

うんうん。

って、わかったような気になって、なんとなくじぶんもプロット作れそうな気になるぐらい、カンタンっぽく説明されてるけど。

来年は、死体をひとつ転がした小説、書いてみる。(2017年の抱負)

これからだれを死体にするか、かんがえてみる。

目指せ、クリスティ


わたしのあたま如きでは犯人が当てれないミステリを、わたしのあたまで書いてみる。


じゃあのー。
よいお年をー。


posted by ぴの at 03:31| オーランド ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月26日

びれっじぢゃなかった映画のはなし

このまえ、人のおうちで映画のDVDをいっしょにみた。

「映画みるのってつかれるー」っていうような映画をみた。
なんかものすごい疲労感が残った。

映画は否応なしに、その作品の時間、映像つきの世界にひきずりこまれる。
映像がちゃんとあるし、みてる人を飽きさせないように次から次へと「次へのキョーミ」を繋いでいく構成になってるから、あたまに少しも余裕がなくなる。
小説なら、数行読んで、そこで少しストップして、小説の世界をいろいろ空想して、また読みだす、っていう、じぶんのペースで物語を進行させれるけど。
映画はジェットコースターとおなじ。
乗り込んだ瞬間から一瞬も「じぶんの思考」に没頭できる「ヒマ」がなくて、わけもわからないスピードでひきずりまわされて、きゃーきゃー気分だけが盛り上がって、でもまわりの景色やこまかい仕掛けまでみる余裕なんてぜんぜんなくて、あっというまに終わる。
発着点に戻ってストップしたとき、高揚した精神状態だけが残って、たのしかったけど疲労してる。

DVDなら好きなときにストップさせれるけど、実際はそんなにこまかくとめながらみることもないし、人といっしょにみれば、みてる人たちみんなが、「あれ?いまのシーン、なに?どういうこと?」とか「え、この人とさっきの人、おなじ?」とかって一致したギモン湧かせないかぎりはノンストップ。

おなじ作品をなんどか繰り返しみることで、わたしのあたまはようやく「物語を理解する」ことがだいたいだから、「はじめてみた」作品って、「理解しようとすること」で疲れるんだよね。
わたしのあたまはそれぐらい低スペック。

恐竜パニック映画みたいに、「ものすごいわかりやすい」単純ストーリーと人物設定、っていう「小学生でもたのしめる娯楽映画」ぐらいは、辛うじて一回みただけでもたのしめる。
コナンが好きなのは、子ども向けの話だから、子どもにちゃんとわかるように丁寧に謎解きやストーリー進行の説明がされてるのでわたしにもちゃんとわかる、っていうとこ。

ちょっといろいろ伏線はられたり、解釈がいろいろできたり、説明調ではない描写に重要ポイントがあったり、時系列がごちゃついてる流れだったり、そういう複雑な構成の「ナゾモノ(ミステリとかサスペンスとかホラーとか)」だと、わたしのあたまはいろいろ理解ができなさすぎて、なにがなんだかわかんない状態に陥る。

昔、学校で一生懸命先生の話を聞いてるのに、授業をしてる先生の話がまーったく理解できなくて、じぶんがなにをいま教わってるのか「わかんない」状態だった、っていう状況は、この年になってもいろんな場面でかわりなくある。

今回みた映画も、じぶんのあたまのわるさ、をものすっごいおもい知らされたかんじで、みおわったとき、一体どういう解釈していいのかぜんぜんわかんなかった。
そういうときはネットでいろいろ調べれば、ほかのみた人たちの感想とかで「あ、そういう映画だったんだー」ってわかったりするけど。
今回は、それを「まだ」やらないでじぶんの感想書いてみて、そのあとで答えあわせみたいに、ほかのネット記事を拾読みしてみようとおもう。
ほんとはどういう映画だったんだろ、って、そこにいま、キョーミあるからねー。

いっしょにみた相手に「わたし、ぜんぜんわかんなかった」とは言えなかったので、相手の「うーん、まあまあだね。シックス・センスのほうがよかったかな」っていうコトバ聞いて、「わたし、シックス・センスはみてないんだよねー」ってこたえただけで、すぐに映画とはぜんぜんちがう話になって、そのまま帰ってきた。

帰ってきて、作品情報だけ調べたから(監督とか俳優とか役の名前とかの確認)、そのときになってはじめて、「うーん、まあまあだね。シックス・センスのほうがよかったかな」っていう相手のコトバの意味がわかったぐらい、わたし、この映画にまーったくの無知だった。

じぶんがみた映画は、シックス・センスの監督の作品、だったらしい。
へー。
っておもったけど、シックス・センスも、それ以外のこの監督の作品もどれもみたことがないから、この監督の特徴、っていうのはぜんぜんわかってないまま。



ヴィジット (字幕版) -
ヴィジット (字幕版) -

みたのは、これ。

ちがう用事でその人の家にいく話をしたとき、「あ、ホラー映画借りてるの。きたときにみる?」って言われて、「なに借りたのー」ってきいたら「びじっと」って言われて、ぜんぜん知らない作品だとおもったからどんな話か聞いたら、「田舎の祖父母の家にいったきょうだいが、そこでなんか怖いものをみた、っていう映画みたい」って説明されて、「あ、そのストーリー、なんかどこかで知ってる」っておもった。
それでかんがえたら、ジュラシックワールドみたとき、いろいろはいってた予告映画の中のひとつ、っておもいだした。
タイトルがそんなかんじだったから、たぶん、それ、っておもった。

予告がおもしろそうだったのもおもいだしたから、「それみるー」、ってお返事して、その人の家にいったとき、「びれっじみせてー。田舎の村のホラーの」って催促した。
わたしのあたま、visitとvillageの区別がついてなかった。



これは予告編。
これ、恐竜映画みたとき、映像しかみてなかったから、監督の説明のテロップとかぜんぜん記憶なかった。

ここまでですでにものすごい長くなったから、分けて書こうかとおもったけど、それほどの感想が書けるとはおもわないから、また途中でだいたいの人が画面閉じるぐらいの長文で書いちゃう。

「ホラー映画」という情報しかはいってないあたまでみたこの映画の、雑なあらすじは。

全編をとおして、「祖父母の家に行った子どもふたりのお姉ちゃんのほうがビデオカメラで撮影した映像」、になってる。
お姉ちゃんのベッカは15歳で、映像の仕事を夢みてるから、祖父母の家でもじぶんでドキュメンタリー風動画を撮ってノートパソコンで編集もさくさく。
弟のタイラーは13歳で、ものすごい潔癖症でラップ好き。
なんでも即興でラップにしちゃうフリースタイルラッパー男子。
お母さんは19歳のとき、両親の猛反対する男と駆け落ちケッコンするけど、子どもをふたりつくったのに、その男はスタバで出会ったオンナのために妻子を捨てて失踪、っていうシングルマザー。
両親とは駆け落ちした日以来ぜーんぜん会ってない。

そんなお母さんを祖父母がネットで(フェイスブック?)発見して、孫に会いたい、って言ってくる。
お母さんはイヤがったけど、ベッカとタイラーが行きたがったから、一週間、いままでいちども会ったことのない祖父母の家に行くことに。

お母さんはじぶんの親にはまだ会いたくないから、途中まで送ってって、家までは迎えに出てきてくれた祖父母と合流することになって。
それで祖父母と孫は「はじめて会う」んだけど、孫にはものすごいやさしくてステキな祖父母。
そういう滞在の様子は、子どもたちがお母さんに映像つきスカイプでちょくちょく報告する。

やさしい祖父母がふたりの孫に言った滞在中の「約束」は3つ。

≪第一の約束≫
楽しく過ごすこと

≪第二の約束≫
遠慮なく食べること

≪第三の約束≫
夜9時半以降は部屋から出ないこと


ほんとに、この祖父母のふたり、ものすごいステキなの。
ふたりは近くの精神病院でカウンセラーの仕事もしてる。
そこで世話になったという人が祖父母の家にいろいろお礼にも訪ねてくるぐらい、人柄もよくて。
家も田舎の農家だけど、中はあたたかみをかんじる家になってて、お母さんの娘時代の部屋もステキで、子どもたちはお母さんの部屋で寝泊まり。
祖父母は孫と過ごせる一週間をたのしみにしてて。

でも、これはホラー映画だからねー。
いろいろと「伏線」は散りばめられてて、「あ、これ伏線かな」っていろいろおもいながらみてた。

まず、地下室はカビだらけだから行ったらダメ、とか。
だけど鍵かけられて封印されてるわけじゃないから、禁止されたら子どもたちは絶対行きそう。
そして、その地下室に「ホラー的な重要ななんか」がある。
って、おもった。

ベッカは動画を撮りながら、祖父母にいろいろ「インタビュー」もしていく。
駆け落ちして以来会っていないお母さんと和解してほしい、っていう気持ちがあるから、お母さんの駆け落ちのこともいろいろと聞いていく。
質問が「お母さんが出ていった日になにがあったの?」ってことになると、お祖母ちゃんはブルブルと震えだして精神的にパニックを起こしそうになる。
その日にお祖母ちゃんにはおもいだすとつらすぎる「なにか」があった、ってベッカはおもうけど、それ以上は突っ込めなくなる。

お祖父ちゃんは昔はたらいてた仕事の話をする。
そこで「白いもの」をよく見たけど、それが見えたのはじぶんだけで、そこはクビになってしまった、って。

お祖母ちゃんは、この村に宇宙人が来た話をする。
その宇宙人は水の中に人間をひきずりこんで貯めてって、いつか星に連れていく気だ、と。

そして、子どもたちが約束させられた三つ目の「夜9時半以降は部屋から出てはいけない」というナゾの規則。

ほんとに子どもたちは、9時半過ぎた夜、寝室の外でヘンな音を聞いて、ものすごいおびえながら、でもそれがなにか見ようとする勇気はふたりにあって、ドアを開けちゃう。
そこで、いろいろとその「ヘン」なものを見ちゃう。
それは、お祖母ちゃんのものすっごい異様な奇行。
次の日にお祖父ちゃんにきくと、お祖母ちゃんは病気なんだよ、と言うだけ。
でも、心配ない、って。

祖父母はじつは「宇宙人」にのりうつられてて、地下にそれがばれちゃうなにかがある、のかなー、って、いっしょにみてた人と言いながら、SFっぽいホラーな展開を想像した。

でも、滞在してるとだんだんわかってくる「お祖父ちゃんの奇行」と「お祖母ちゃんの奇行」は。
お祖父ちゃんは失禁するからってオムツをつけてたんだけど、汚れたオムツをちゃんと捨てないで納屋に貯めてってた。
きゅうにタキシードに着替えて「パーティに行かなくちゃ」って言いだすけど、そんな予定はなくて。

お祖母ちゃんの奇行は、椅子に座ったままひとりで笑いつづけてたり。
9時半過ぎた夜、床を四つん這いで這い回ったり、嘔吐しながら歩いてたり、全裸で家具をひっかいてたり。

そういうふたりの「奇行」は、わたしには宇宙人のせい、というより、老人性の痴呆の症状にしかおもえなくて。
あれ、これ「ホラー」のジャンルなんだよねー。
それとも、ホラーちっくな深刻な老人の認知症の問題提起な映画?
って、あたまに「?」がぷかぷか漂いだしたわたし。

お祖父ちゃんの説明で、ベッカもネットで夜になると認知症の症状が出る病気を調べて、一旦は納得。

ホラーっぽいこわさ、も、そのほとんどが「いきなりおどろかせる」映像的演出ばっか。
きゅうにお祖母ちゃんがものすごい形相で画面にアップになったり。
貞子を知ってる日本人なら余計にものすごいこわいよねー、っていう、貞子的ホラー映像もあるし。

キッチンのものすごいおおきなオーブンの「中」を拭き掃除して、ってお祖母ちゃんがベッカに頼む。
素直にやってあげると、もっとカラダを中にいれて、って言ってくる。
ニンゲンの丸焼きが出来ちゃうぐらいのおおきなオーブンだから、「もしかして、ここにとじこめられちゃうのかなー」って予想もした。

そういうホラー的な恐怖の描写もいろいろ散りばめられてるけど、だいたいは祖父母の「奇行」がメインで話が進んでく。
ふたりの子どもたちはあまりにおかしい祖父母たちにおびえて、帰りたくなるけど、認知症っぽいから、こわがって逃げだす、という結論もなかなかとれずに迷ってて。
一週間だけだから、って、やさしいときはやさしい祖父母への愛情から滞在をつづけることにして。

だけど、いよいよその一週間の最終日の直前。
この映画のいちばんの「衝撃」のシーンが出てくる。
(これをネタバレしちゃうと、この映画のみどころがなくなっちゃうから、ここは書かない)

わたしは素直に、その衝撃シーンに衝撃走った。
ひょえー、ってなった。
いっしょにみてた人も、ものすごい声だしてた。
(これからみる人は、このシーンをぜったい知らないまま、のほうがいいよー。完全ネタバレしてるようなレビューがあったら、みるまでは読まないほうがいいとおもうー)

これは高齢の身内の認知症をとりあつかった社会的ニンゲンドラマとかじゃなくて、ほんとにホラー映画だったー、っていう、ジャンルの明確な確認もできたし。

それぐらい、そのシーンまでは、どうみても祖父母の認知症的な奇行しか出てこないから、単純にこわがってドキドキしながらみてていいのか、迷いがあったんだよね。
こういう認知症的な奇行を、ホラーちっくにとらえていいのか、って。

この映画、リアルなホラー、として、正常な精神状態がこわれていく身内、の姿を描く、ものすごいシリアスな映画だったんじゃないのか、って。

だから、「あ、これ、ほんとにホラー映画だった」ってわかったときは、こころが軽くなった気がした。
祖父母の奇行は「認知症」じゃなくて、ほんとになんかものすごいホラー的なナゾがあるのかも、っておもったから。

それで、そこからものすごい加速化される「ホラー的超速展開」に盛り上がりながらラストまでみた。

ラストまでみて、わたし、また混乱した。
これ、ホラー映画、だったの?
って。

両親と絶縁して人生をかけた男にあっさり捨てられた娘と、実の父親に見捨てられた傷をかかえたその子どもたち。
その母子家庭の「母子」3人の再生の映画、なんだよね、これ。

母子3人が再生するには、まずはお母さんがお母さんの両親に駆け落ちをゆるされる必要がある。
お母さんと祖父母の「親子関係」が修復されて、お母さんが再生して、そこで子どもたちも父親に捨てられた傷から立ち直っていける。

この流れは、「家族の物語」で、そこには「白いもの」も「宇宙人」も関係なくて。

この映画は、母子3人の再生、まで辿りつく。
だから、はっぴーえんど、なストーリー。
ラストはものすごいステキなの。
お母さんが息子のタイラーをだきしめて言うコトバ。
そして、タイラーのさいごの即興ラップ。

だけど。
その3人の再生、にたどりつくまでの、「祖父母」の役どころ、は。
「ホラー」仕立てに解釈したままで、いいのかな。

この孫ふたりと一週間をすごした「祖父母」は、ホラー映画でいう「悪役」サイドに押しこめちゃって、いいのかな。
っていうモヤモヤが、わたしにはものすごい残った。

この映画、ものすごいシリアスだよ。
認知症と精神病。
この映画に描かれてるこのふたつは、ハンニバル・レクター的な「わたしたちとは関係ない遠いとこのサイコパス」な話ではなくて。
だれの日常にも「よくある」「他人事ではない」「フツーの問題」にすぎない。

「人が殺されてる」事実がたしかにあるストーリーなんだけど、この映画に「憎むべき悪役」なんて、出てくるかなー、っておもって。

つっこみどころもいろいろある。
たぶん、だれでもつっこむとおもうけど。
散々、お母さんと映像つきのスカイプでやりとりしてるぐらいなんだから。
ちょこちょこ撮ってったベッカの動画、フツーなら、「きょう、こんなことしたよー」って、ちょこちょこみせてもフシギじゃないのに、ぜんぜんみせないフシギ。

祖父母は「ネットで駆け落ちした娘を発見した」って言ってたけど、祖父母の家にぱそこんとかインターネットに接続されてる端末はでてこないフシギ。

あれだけいろいろ覗きまわったりはいりこんだりしてる子どもふたりが、なんで禁止された地下室だけぜんぜん覗いてなかったのー、っていうフシギ。

この映画で、わたしが「真にこわかった」のは、ふたつ。

肝心なとき、所轄の警察(?)に電話したら「不在です」とか留守番テープが流れて、警察官につながらないシステムのアメリカの事情。
(映画でよくみるけど、アメリカの警察ってこんなに電話がすぐにつながらないものなの?)

それと、こっちのほうがこわいけど。
何年も会ってないし帰ってない、という祖父母のいる実家に、じぶんがついていかないで子どもたちだけで行かせた母親。

祖父母の家が「いまどんな状態か」、子どもたちが一週間も滞在するなら、じぶんで安全を確認しないものなの?
もしかしたら、だれか第三者の同居人がいるかもしれないし(その人が祖父母には親切でもものすごいペドフィリアかもしれないし)、故郷の街の治安はじぶんが子ども時代よりものすごい悪化してるかもしれないし、孫に会って祖父母がいったい何を吹き込むか悪意があるかもしれないし、ヘンな宗教にはまっちゃってるかもしれないし、それこそほんとに、高齢化した両親は認知症を発症してるかもしれないんだし。

じぶんで安全確認をしない場所に一週間我が子を子どもだけで滞在させる親、って、わたしはフツーにこわい。

でも、警察や親の監督不行届はこわいよねー、っていうホラー映画じゃないのはたしか。

祖父母の奇行はいろいろコミカルな演出で描かれてたりして、笑っていいのかこわがるとこなのか、わかんないシーンがいろいろある。
わたしはこの映画ずっとみてたら、笑うこともこわがることにも、なんか罪悪感が湧いてきた。

「祖父母」がすごいステキだったから、「奇行」を単純に「ひゃー、なにー、こわいー」なんておもえなくて。
ものすごい切ないきもちが湧いてきちゃって。

認知症っぽい奇行を、「ホラー」描写にするこの監督の感性が、わたしには好きになれなかった。

あのね。
どこかにこの祖父母に対して「救い」があったんじゃないのかな、っておもう。
わたしのあたまでは。
でも、子どもたちのお母さんが、かんぜんに放任した状態で子どもたちだけを、実家に行かせてしまったことで。

混乱する子どもたちはまともな状況判断ができる情報にたどりつけず、あんなラストのこわい展開になっちゃって。

お母さん、あなたがいけないのです。

と、言ったらダメなのかな。
このお母さんも「傷ついてる」側の人、なのだから。

このストーリー。
小説『青の炎』に少し、似てる。
あれも、お母さんが親として子どもたちをきちんと守ろうとしなかったせい、で、ああなったのだから。

この映画では、子どもたちは無事だったし、母子の再生はできてはっぴーえんどだったけど。
あらたなトラウマを植えつけかねない体験、をしたよね、ベッカとタイラー。
そこの危惧はぜんぜん漂わせてない終わり方だから、いろいろとわたしにはモヤモヤが残りすぎた。

ニンゲンを齧る恐竜からぎゃーぎゃー言いながら逃げ回る単純映画のほうが、みていて気楽。
こわがったりハラハラすることに、罪悪感なんて湧かないから。
どうやってみればいいのかぜんぜんわかんないまま、混乱したあたまに疲労感が残る「わたしのあたまにはむずかしい映画」をみると、映画をみる知力と体力がじぶんには足りなさすぎる、っておもう。

疲れた。
そういう映画だった。

こんなにいろいろ「こわい」展開になっても。
みおわって、いろんなシーンを思い返そうとすると、ステキな祖父母、ばっかあたまに浮かぶ。
それぐらい、ステキだったよねー、このお祖父ちゃんとお祖母ちゃん。
そして、ふたりの田舎の家。

あれだけステキだったからこそ、なんか切ない。
ホラー仕立てで描写される奇行の姿には、胸がいたくなる。






書き終わったから、あとで時間あるときにでも、ほかの人たちの解釈とかいろいろネットでみてみるー。
ほんとは宇宙人の話、だったのかもしれないし('_') ←なんかその可能性が打ち消せなくなってきた

いっしょにみた人にも、こんど、この映画でいろいろつっこんだ話、ちゃんとしてみる。
「ああ、あれねー、つまり池の中の宇宙人がさー、あれはこわいよねー」って解説されちゃう気がしてきた。

わたし、根本的にものすっごい解釈がぜんぜんちがってて、そのちがう解釈を基盤にして、「わたしには単純にこわがれませんでした」とか間違った方向に「わかったようなくち」叩いてるのかも。

('_')



posted by ぴの at 18:15| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月19日

「神」になる、「人」でいる

クリスマスはケーキとチキンを予約した。
その両方を予約すると、なんかちゃんとしたクリスマスをむかえる、っていうかんじがする。
「ちゃんとしたクリスマス」を子どものころからあたりまえのように過ごしてきたわけじゃないから、今年のクリスマスは特別。

お祖母ちゃんちで、みんなでやることになったの。
去年は、お母さんとはさいごのクリスマス、って言われてた。
今年は、お祖母ちゃんとさいごになるとおもう、って言われてる。

ことしはわたし、ちゃんと働けたから、ケーキとチキンはわたしが買った。
それから、ほかの食べるものは当日、お祖母ちゃんちに行って、いろいろつくる。
お祖母ちゃんがいろいろつくってくれちゃうとおもうけど、わたしもなにかつくらなくちゃ、っておもった。
でも、お祖母ちゃんがつくってくれるお料理を、いろいろ食べたい。
叔母さんもそうだとおもう。
だから、わたしは買い物したりテーブルをととのえたり片づけたりする役目がいいのかも。

"きよしこの夜"
この歌の第四節には、人類は皆きょうだい、っていう意味の歌詞があるんだって。

っていうのを、ラジオで言ってた。

おおきなつながり、より、じぶんの身近なつながり、が、断ち切れていく。

お祖母ちゃんまでいなくなったら、叔母さんは両親ときょうだいすべてを亡くしたことになる。
世界中の人たちとおおきくつながっていたとしても、そのおおきな愛は、ちっちゃなじぶんひとり、をどう包むんだろ。

どんなにふわふわな毛布も、カラダに密着させるから温かくて。
カラダから離れたところでテントみたいにおおきく包んでも、肌に触れるほどの毛布よりは温めてくれない。

世界に平和を。
だれもが争わない世界に。

それは、じぶんの平和をまもる、とおなじこと。

だけど、世界中が平和になったとしても、かなしいことがじぶんに起これば、世界はかなしみに満ち溢れる。

この日曜、村山由佳さんのラジオでちょうど、そんなクリスマスソングがかかってた。
人類愛や家族愛や恋人同士の愛を歌うハッピーなクリスマスソングはおおいけれど、クリスマスにアンハッピーやロンリーな人もいる、って。
そういう人の歌をつくりたかった、って、ハッピーソングではない歌をつくった人が語ってた。

ケーキとチキンを予約する。
そんなクリスマスは、毎年、じゃない。
今年はケーキとチキンを予約する。そんなクリスマス。

去年のいまごろの日記読み返してみたら。
弟が「こんどの夏」の話をしたことを書いてた。
それで、わたしが、「こんどの夏」なんてあるの?って。

あのときの「こんどの夏」はもう過ぎて、わたしのコトバのほうが正しかった。
ブログに書く、っていいね。
リアルで、友だちにもこんな話はしてない。



女神 (光文社文庫) -
女神 (光文社文庫) -

これ読んだ。
明野照葉さんの、このまえの『さえずる舌』につづいて。

その本の感想はこれね。
http://osimai.seesaa.net/article/444413666.html

『さえずる舌』になにもかもがカンペキな美女の芽衣っていうキャラが出てくるけど。
それとまるでおなじ、っていう設定のカンペキ美女な人が、こっちの主人公。

こういうキャラ設定が好きな作家なのかなー、っておもったら、この『女神』のほうが2002年に書かれてて、2009年の『さえずる舌』の元ネタみたいになってる。
『さえずる舌』は、作者がけっきょくのところ「なにを」描きたかったのかわたしには読み取れなくて、うーん、っていう感情が読後感にあったけど。

この『女神』はカンペキなまでに、おもしろい!
こっちの小説のカンペキ美女は、沙和子さん。
沙和子さんは、経営コンサルティングの会社で営業成績2位。
女性ではダントツ1位。

ほかの営業の人たちは、会社から支給されたパソコンつかって、営業日報を毎日残すことになってる。
でも、沙和子さんはそれをぜんぜんまもらない。
じぶんのノートパソコンにすべてのデータをいれて、ほかの人には触らせない。
日報も残さない。
それでも会社に文句言わせないだけの成績はおさめてる自負があるから、組織の中で勝手気ままに働いてる。
そんな沙和子さんに憧れる女性社員もいる。

沙和子さんがそんなにカンペキでいれるのは、沙和子さんが「カンペキな沙和子」を演じてるから。
じぶんでカンペキなじぶんのシナリオを書いて、そのとおりに生きてる。
じぶんのシナリオのままに恋人も持つ。
そして、沙和子さんは、「じぶんのカラダ」もじぶんでカンペキに仕立ててた。
お金をかけた美容整形で。

常にトップを目指す営業成績を維持するためには、枕営業もする。
ネットで知り合ったハッカーな人の協力を得て、仕事関係の人たちにハッキングして情報を集める。

だけど、だんだんと沙和子さんの生活は、沙和子さんのシナリオどおりにならなくなっていく。
生活のスパイス的に後腐れのない恋愛をたのしんでるつもりだったけど、ふたりの恋人は沙和子さんにホンキになりすぎて、どちらも沙和子さんとケッコンしたがるようになった。

沙和子さんに憧れる同じ会社の女性社員は、神さまはなんであんなにカンペキな人をつくるんだろ、っていう妬みまじりで女友だちに話したら、そんな沙和子さんにもなにか秘密はないのか、って話になって。
ちょっとした「詮索ごっこ」を友だちと始めて、沙和子さんのびっくりするような過去をいろいろ知ってしまう。

こういうストーリーの流れは、『さえずる舌』とだいたいおなじ。
周りがカンペキな美女の過去を探るようになって、だんだんとカンペキ美女の「正体」が暴かれていく。

『さえずる舌』は、いろいろとうまくいかなくなったカンペキ美女の芽衣が、あっさりとそのことにうろたえて、じぶんで打開策をおもいつかなくて自滅してっちゃう。
その失速感がかなりがっかり展開になっちゃったんだけど。

こっちの『女神』はちがう。
どんどん追い詰められてった沙和子さんは、過去のとんでもない犯罪まで暴かれてしまう。
芽衣の黒い過去どころじゃない、ホンモノの大犯罪。
ぜんぜん追ってこなかった警察に、ついにロックオンされちゃう。
ネットで知り合ったハッカーをうまく利用してたつもりだったけど、あっちのほうが上手でハッカーに「なにもかも」を知られてしまう。
沙和子さんに憧れるあまり沙和子さんの秘密の詮索をはじめた女性社員と友だちコンビにも、すべてを知られてしまう。

じぶんが崖っぷちに立たされた自覚を持つ沙和子さん。
でも、芽衣のように、うたろえて自滅、なんていう弱々しい豹変キャラにはならない。

ラストは書かない。
でも、このラスト、すごい。
爽快感がものすごい。

計算して生きるオンナが、オンナを武器にして、計算どおりに生きる。
それがどこまで可能なのか、っていうサスペンス仕立てなこの小説。

こんな「カンペキ」なストーリーを書いたのに、なんでその7年後、またおなじ設定の女性キャラをつかって、あんなふうながっかり展開の小説を書いちゃったんだろ。
ちがうラスト、を描いてみたかったのかな。

この2作、両方とも読むのをオススメ。
作家がじぶんのお気に入りのネタをつかって、ちがうお料理をつくる、みたいなおもしろさも味わえるから。



エネミイ (角川文庫) -
エネミイ (角川文庫) -

これも読んだ。

信頼してた社員の裏切りで自殺まで追い詰められた社長、の娘。
目の前で拉致されレイプ後に車で轢き殺されたカノジョ、の婚約者の男。
暴走族の暴走行為の事故の被害者となって下半身不随になった娘、を持つ父。
暴力団の抗争の銃撃戦に巻き込まれて射殺された幼い娘、の父。

それぞれの加害者は、法的に刑罰から逃れたり軽すぎたり、で、「のうのうと」生きてる。
被害者は、それ以上の法的制裁は望めない。
諦めて泣き寝入りして生きていくしかない、フツーの弱い被害者たち。

そんな4人の被害者たちが、ある喫茶店で知り合い、集まるようになって、それぞれの「加害者」への恨みを語りあう。
その後、それぞれの加害者たちが次々殺されていく。

さいしょはバラバラに捜査をしていた各所轄も、そのうち、その4件の殺人事件の接点が「ある喫茶店」だと気づく。
だけど、喫茶店で集まっていたそれぞれの被害者たちは、じぶんの加害者が殺されたときにはカンペキなアリバイがあった。
彼らは「交換殺人」をやったのか。

っていう、ミステリ小説。

被害者の人権を損なう犯罪の加害者の人権は社会的に守られている。

その理不尽さはリアルな社会で、実際にいろいろと問題になってる。
この小説の被害者たちも、加害者の人権は社会に守られている、っていうことをなんどか言ってる。

このテーマにキョーミをもったから、これを読んでみた。

「エネミイ」とは、「enemy=敵」という意味。

わたしはものすごい単純に、「交換殺人」だとおもって、警察が殺された加害者に対する被害者のアリバイが崩せないことから、代理殺人をした人を特定していく、っていう話なんだとおもってた。
そしたら、そんな単純なミステリじゃなくて、途中で「え?」って、ぜーんぜん予想からはずれて、おもしろかった。

でも、そこから、「真相」はわりとカンタンにわかっちゃう。
過去のいろんな事件がどれも丹念に書かれて、そこから「加害者に対する被害者の恨み」をひとつひとつ丁寧に炙りだして、それを基盤にしたストーリーだから。

あれ?この一件は?
って、ひとつだけいつまでも放置されてる「過去の事件」があるから、途中で先が読めちゃう残念さはある。

だけど、その「読めた先」に、まだ「先」があって、そこはぜんぜん読めてなかったから、そういう展開になるのかー、っておもしろさがあった。

一転二転していく展開の構成はさすが。

そしてラストは、わたしにとっては意外。
え、こんなふうに終わらせちゃうの?
っていう、わたしの中に湧いた「意外性」には、ちょっとだけがっかりがあった。

「じぶんにとって、じぶんの命よりもだいじな存在を殺されたら。それを殺した人を赦せますか」

っていう、重たいテーマがこの小説を読んだあと、こころに残る。
(べつにこれは公式に明記されてるテーマじゃなくて、読みながらわたしに浮かんできたテーマ)

わたしは死刑制度には反対なかんがえをいまも持っているけど。
個人的な私刑に、第三者の立場から「それはダメだよ」っていうかんがえをもったとして、なんの意味があるかな、ともおもってる。

ダメ、なことでも、感情は消えない。
第三者がその感情を他人が持つのを禁じることはできない。

その他人が口出せない他人の感情を、じぶんではない他人がどう扱うか、それを裁く権利などじぶんにはない。

「感情」はそれを抱く本人が、どうにかできるもの。
だいじな存在を殺された被害者の遺族は、加害者が死刑になったとしても、それで恨みや苦しみやかなしみが消えるとも限らないし。

この小説は、司法の手は生ぬるい状況に逃げ込んだ加害者に被害者はどんな報復ができるのか、っていうテーマだとおもっていたら。
復讐は被害者を救うのか、っていうテーマだった。

森村誠一さんは、この小説の「被害者」の人たちすべてを、善い人、に描いてしまってる。
善い人、は、悪いことはできない。

そこに、人の倫理の壁があって、善い人は倫理の壁の中で生き、倫理観の中に結着をみいだす。

凄まじい恨みがあったしても、無自覚に倫理の壁の中で処理をすることは、「善人」であろうと、ものすごい苦行だともおもう。
その苦行を乗り越えた人の魂は、仏様とかは救ってくれるだろうけど、人はそこまでして仏のように生きることがしあわせなのか、っていう、なんかモヤモヤがわたしに残った。

くるしい体験をした人は、その後、なんどもなんどもくるしみの滝の下で精神修行をしなければ、「フツー」に生きていけない。

人の人生をこわす加害、っていうのは、ものすごい罪深い、っておもった。
刑罰としては、大した重さにならない犯罪だとしても。

社会のルールにのっとって理性的に生きる、というのは、宗教がなくちゃやってられないのかもしれない。
この小説にはぜんぜん宗教なんて出てこないけど。
「罪人を赦す」
それは、その加害者のやったことをゆるしてあげる、ということではなくて。
報復をしない、ということ。
じぶんの恨みの感情から敵を逃してやる、ということ。

そんな心境に到達するには、宗教のような神の感覚を取りこまないとなれない、ってわたしはおもった。

この小説は、「必殺仕置人」な世界と対峙した小説、ともいえる。





posted by ぴの at 17:12| オーランド ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする