2017年01月27日

じぶんをラクにする

ブログやツイッターからぜんぜん離れてる日が数日つづいても、ぜんぜんヘーキになった。
もうこのアカウント、わたしにはいらないのかなー、なんておもうけど。

ここがなければ、じぶんのあたまのなかにあるものを出す場所がぜんぜんないから、これからもここは必要なんだとおもう。

じぶんの病気のことはとくに友だちにもちゃんと話してないから。
去年のうちに行かなくちゃいけなかった「通院の日」を先延ばしにして、ことしになって行ってきた。
そしたら、やっぱり、きぶんがものすごい落ち込むことになった。

着実に進行してて、それを遅くさせるために通院はさぼっちゃダメ、って怒られて。
さぼるとどんなことになるか、具体的にいろいろ言われて、もういますぐおしまいでいいです、っていうきぶんになって帰ってきた。

ツイッターでいま、書いたばかりだけど。
書くお仕事で知り合った親世代の人が、癌の疑いあり、って言われて、その検査をこんどいろいろすることになったんだって。
それでもし、わるい結果が出たら、治療はなにもしない選択とるつもり、って言ってた。
独身だから、扶養してる身内のために長生きしなくちゃ、っていう義務はまったくないから、って。

ものすごい自然なかんじで「治療はしない」って言ってたのが、わたしには衝撃があった。
そういう選択を選ぶ身内がわたしにもいたから、その選択が少しも悲痛の果てのものじゃない、っていうのもわかってきてる。

他人の口からもそんな選択を聞くと、「そっか、ビョーキから解放されていいんだ」っていう衝撃があったの。
ビョーキに振り回されない。
苦痛を緩和する治療だけ受けて、ムリに治して寿命を延ばそうとあらがわない。

お母さんがそんな選択をして、じぶんの尊厳をぜんぜん損なうことなく、穏やかに死んでいけたのを見たから。
わたしも、いつか将来、そういうときがくるなら、そうしたい。

ただ。
わたしのビョーキは、いろいろ癌とは進行の仕方がちがう。
途中で、死んだほうがぜんぜんマシ、っていう、じぶんには耐えれそうもない苦痛な時期が来る。
わたしは、そのときがじぶんのおしまいの時期にしようとおもってる。
そう決めてる。
それが何年先かわかんないけど。

そのときまでは病院通いをつづけるつもりだけど、精神的にきつさをかんじるたびに、それを越えなくちゃいけない理由が独身のわたしにはない気がして。

なぜ、人は生きるんだろう。
ってことを、よくかんがえる。

人生なんてぜんぜんたのしくないのに。
わたしには、そう。
会いたい人には二度と会えなくて、いだいた夢はムリヤリ諦めをつけて、かかわりたくない人たちとの縁はカンタンには切れず、できればはたらきたくないけど生活費のためにはたらくまいにち。

さいきん、わたしのなかに「むなしさ」が漂う。
いろんなことに。
なにをやっても、むなしい。

むなしさは、見返りを欲しがることの裏返しなのかも。
無自覚にでも。
ってことも、かんがえた。
だから、むなしさをかんじるっていうのは、じぶんにそんなつまらない欲望があるせいだ、ってじぶんを責める。

だけど。
そうやって、じぶんをただそうとして。
そんなことまでして、じぶんをきれいにする必要なんてあるのかな。
そんなことも、かんがえる。

むなしい。
ってかんじた、その感情を、じぶんが汚いもののように否定しちゃったら、わたしがわたしでいる理由がなくなる。
わたしが。むなしさをかんじた。
それは、わたしの感情。
わたしがどんなにただしくないニンゲンだとしても、いまのじぶんが、そうかんじた。

いろんなことを、じぶんでがんばる。
仕事の手は抜かなかったり。
それでも、そういうじぶんを律した結果に、むなしさに襲われてしまう場合。
それは、じぶんの未熟さを責めることがただしいの?
じぶんがむなしさをかんじてしまったのは、不可抗力。
そうひらき直りたい。

人が衝動的に殺人をおかしてしまうきもちがわかる。

そういう衝動がときどき、じぶんに湧くようになった。
特定のだれかを殺してしまいたい、っていう、矛先がはっきりしたものではなくて。
無差別殺人みたいに、街中を「わーっ」って刃物振りまわしながら駆け抜けたい衝動。
その刃物がだれかをひっかけてしまっても、そんなことお構いなしに。

でも、わたしには人は殺せない。
だから、その衝動はすぐ、じぶんに向かう。

死ねばいいのに。
っていうコトバは、じぶんは口にしないつもりで生きてきた。
でもね、このコトバ。
いちど吐いてしまうと、ものすごいきもちいいの。
ものすごいカタルシス。

ただし。
わたしはそのコトバを、じぶんに向ける。
「シネバイイノニ」
じぶんに言う。声にして。
シネバイイノニ。
シネバイイノニ。
shinebaiinoni.

精神がこわれてしまってるお父さんのお母さんから、死ね死ね死ね死ね言われたときより、じぶんに「シネバイイノニ」と吐くことは、それがだれの望みでもあるような気がする。

むなしさをかんじたあとは、じぶんに向かって、シネバイイノニ、とつぶやく。

なぜ、人は生きるの?

なぜ、人は生きようとするの?

わたしの書くものは、愛に溢れてる、って反応をもらう。
その媒体でとるアンケートで。

世界観、好きです。
ぜったい愛がある。だから好き。
こういう愛の描き方があったんだ。

そんなアンケートの回答を転送してもらう。

愛なんていらないじぶんが、愛を描く。
詐欺師のつもりはなくて。

愛はある。ちゃんと。この世界に。

ただ、それは、わたしのものではないし、わたしがそれをほしいわけではない。

わたし自身とはぜんぜん関係ないものだけど、たしかに、愛っていうものは、在る。

在るものを、わたしはただ描く。

そういう創作は、じぶんの生身の感情をダイレクトに反映させるわけではないから、ものすごいラク。

わたしは、じぶんが書くものには、かならず、「書いた文章は先につづく」ことを想定してる。
いちばんさいごの「。」を打ったとこで、書いたものがおしまい、なわけではなくて。
その先にも、ずーっと、それはつづく。

その「先」に、わたしは意識的に「希望」を置く。
じぶんは厭世観むんむんな性質なのに。

そんなじぶんに憐憫があるわけではないけど。
わたしは、じぶん以外の人には、だれも、しあわせでいてほしい、っていう、無責任な感覚がある。
だからわたしは、日常のなにげない、だれもたいして記憶もしないようなささやかなことが、その人のしあわせの基盤になるような物語を創るのが好き。

じぶんはまいにち、わけのわからないむなしさに襲われながら。
だれかのしあわせを無責任に思い描く。
それで、じぶんがたのしく生きれない罪悪感を打ち消してるのかもしれない。

たのしく生きる必要もないと、わたしはおもっているけど。
どこかで、人生をすこしもたのしめないことに、やましさかんじる。

お母さんに。

このまえ、ものすごい潮がひいてた漁港で、ものすごい潮が満ちてる状態のときをみた。
びっくりするぐらい、「海」が陸に迫ってた。

わたしは、そんな自然の光景をみると、しあわせをかんじる。
生きてると、こんなもん見れてすごいなー、っていう、しあわせ。
その、かんじた「しあわせ」の感覚を、物語上のキャラクターにおとしこむ。

生きててすこしもたのしくないけど、そんな人生でも、しあわせをかんじるものはある。
いろいろ「たのしい」という感情を、じぶんでだいじに持とうともする。
それをひとつひとつ、じぶんでクリップして、「しあわせ」や「たのしい」感覚を「体感」にかえる。

体感は、料理でいえば、出汁。
その出汁で、いろんな食材といろんな調味料をあわせて、いろんな調理法で創作の物語をつくる。

わたし以外の人は、すべて。
しあわせに生きて。

そうおもうことが、ウツでダメになっていくじぶんのダメさをごまかすことにもなってる。

世界中がしあわせで溢れてたなら、じぶんがどうダメになってっても、だれも気づかないから。

どんなむなしさをかんじても、人のしあわせな姿をみれば、むなしさにあらがう気持ちなどなくなって、わたしはラクになる。
諦めて、ラクになる。

わたしだけ、この世でいちばんわるいのだ、とおもうと、わたしはものすごいラクになる。

だれかのせいではない、という感覚だけが、じぶんをラクにさせてくれる。



posted by ぴの at 18:39| オーランド ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月21日

歓喜的人生・非課税的至福

コンビニでこんなのが売ってて、1000円しなかったから買っちゃった。

世界一美しい音楽 カラヤン×ベートーヴェン交響曲 ベスト・コレクション CD BOOK 【CD4枚付き】 (CD+テキスト) -
世界一美しい音楽 カラヤン×ベートーヴェン交響曲 ベスト・コレクション CD BOOK 【CD4枚付き】 (CD+テキスト) -

カセットが壊れた車のカーオーディオをCDタイプのに替えたばかりだから、車の中でCDがそのまま聞けちゃうの。
それで、車の中で聞こうとおもってクラシックなんて買ってみた。

これで、ものすごいおもしろい遊びができる。
いつもの三浦半島とかの真夜中ドライブの時、これの交響曲第九番をガンガンかけるのね。
そしたら、じぶんがなんか、シリアスな映画の主人公になったきぶんになる。

ただいつもの夜道を走ってるだけなのに、なんかいろいろなドラマを抱えて車を走らせてるみたい。
たとえば、映画『シャイニング』の冒頭の山道走行シーン的なかんじ。

夜更けに岬を走るオンナ。(ワケアリ)
夜空にはかすんだ円い月。
月光に照らされて不穏に浮かぶ綿雲。
時折、建物の合間にかすかに光る海面が見える。

一楽章と二楽章で、そんなワケアリオンナの真夜中のドライブが盛り上がるの。
で、穏やかな三楽章で、しあわせだった昔を回想するオンナになる。
じぶんの人生、崖っぷち。
戻れない過去。
二度と会えない親や兄弟。
涙も出ない。
ただ、ひたすら車を走らせる。

そして半島の先端。
その時、BGMは四楽章に移って、いよいよ人生も最終章。
そこに歓喜の合唱。

この合唱ってコメディちっくだよねー。
そう、人生なんてどんな悲劇とおもっても、終わってみればすべては喜劇。
バリトンのおぢさんが、もうおしまいだよ、ってわたしに告げてくれる。

あとはエンドロールまで、しばしのクライマックス。

こーんな遊びができるのに気づいて、すごいおもしろかった。
いろんな場面で、交響曲って映画チックにじぶんを主人公に盛り立ててくれそう。


↑わたしのブログを読むのに1時間もかけることないから、お掃除のBGMとかに流してみてね。
いつものお掃除が、時計じかけの大掃除(掃除監督者:キューブリック)、になっちゃう。

ぜんぜん掃除をしないだらしないじぶんが、あるとき、お掃除警察(スティーヴン・キング監修)に捕まって、強制的に改心させられて、歓喜の歌を聞くとお掃除エクスタシーな体質になるのね。
それで、めでたしめでたし。



ローズマリーの赤ちゃん (ハヤカワ文庫 NV 6) -
ローズマリーの赤ちゃん (ハヤカワ文庫 NV 6) -

アマゾンの画像、ちゃんとしたのはないんだねー。

この小説、なにもかもが好きすぎて、この小説の世界に飛び込みたくなる。
あたらしい機能的な家より、古くていろいろいわくつきのアパートに惹かれた主人公夫婦の感性に、まず共感しちゃう。
わたしもこのアパートに住みたいー。
悪魔の巣窟でもぜんぜんかまわないもんねー。


って、ブクログに書いた。

洋画でみるアパートって、日本の建物とはぜんぜんちがって、どれもものすごいステキ。
古いから水回りはあまりよくないかんじだけど、そういうのも構わないぐらいの魅力がある。
実際の住み心地はわからないけど。

日本でも古民家ブームがあるから、最新の設備機能を備えた密閉型の住宅より、すきまだらけの古い建物が心地好い、って感性の人もおおくいるんだとおもう。

この小説の主人公夫婦が住む古いアパートは、映画ではジョン・レノンが住んでたアパートで撮影されてる。
映画もみたせいか、小説読むと、あの陰鬱な映像が重なって浮かんで、原作と映画が切り離せなくなってる。

いちおう、ホラー小説、ってことみたいで、映画もホラーのジャンルになってる。
でも、キリスト教を信仰してないと、主人公の「あらがい」には共感があまり湧かない。

「悪魔」ってそんなにこわいものなの?
って、わたしはおもっちゃうから。

だって。
もし、悪魔教の信者になるなら生涯非課税にしてあげますよ、って悪魔に持ちかけられたら、わたし、信者になっちゃうかも。
そうやって「おいしい餌」に釣られて、悪魔の仲間に引き入れられちゃう人もこの物語には出てくる。
(いちおう誰かは書かないけど)

神さまを信じても、努力がかならず報われるとはかぎらず、低収入なのに税金がタイヘンな社会に生きてると。
「非課税ライフ」って、ものすごいおいしい餌だよね。
釣られてあたりまえだよね。
「一生、確定申告なんてしなくていいですよ、領収書も整理しなくていいんですよ、マイナンバーなんていちいちおしえまわらなくてもいいんですよ」って言われたら、フリーランサーはみーんな悪魔組にはいっちゃうよね。
そんな餌で釣ってくる悪魔が神さまにおもえちゃうよね。

悪魔を信じると、どんなデメリットがあるのか、こういう悪魔小説を読んでてもぜんぜんわかんないし。
地獄に堕ちてから、ものすごい苦しむの?
でも、エンゼル・ハートとか、そういう悪魔の物語って、悪魔と契約した人の「とんでもない報い」までは書いてくれないから。
なんにも抵抗しないでさっさと悪魔の仲間になっちゃえばいいのに、って、いつもわたしはおもってる。

エクソシストみたいに、じぶんの性器をじぶんで十字架でグサグサしちゃうのはイヤだけど。
悪魔にのりうつられたリーガンは、あんなものすごい状態になっちゃったけど。
ローズマリーに出てくる悪魔教の人たちは、ふだんはちゃんとニンゲン的な暮らしを営んでる。
底辺暮らしなわたしより、もっといい暮らしをしてる。
だれも、じぶんの性器をグサグサしたり、階段を逆さまに降りたり、緑色のゲロなんて吐かない。
厚塗りのファンデがヒビ割れたような顔にもならない。

リーガンにのりうつった悪魔はひどいけど、ローズマリーに出てくる悪魔はなにがひどいのかわかんない。

たのしく悪魔にとりこまれて、ハッピーライフ送ればいいじゃん。

でも、ローズマリーがあれだけ恐怖に陥ってたのは、じぶんのおなかの子が悪魔の生贄につかわれる、っておもったからなんだよね。

ローズマリーはぜんぜん悪魔の仲間にとりこめないとおもったのはなぜなんだろ。
うまくとりこめばよかったのに。
悪魔のくせに、布教がヘタ。

それとも、ニンゲンって、神さまを信じるけど、その神に反するものにはあらがう、っていう宗教的良心を本能としてもってるイキモノなの?

宗教ってなんだろ、って、こういう「神 vs. 悪魔」な物語を知るたびにかんがえこんじゃう。

あ、『エンゼル・ハート』は、その「良心」があるが故に、悪魔との契約をまもれなかったオトコの話、だっけ。
でも、あの悪魔の契約も、じぶんの性器をグサグサしろなんていう「じぶんが痛い目に遭う」取引じゃなくて、他人をとりこめ、っていう、他害的な取引だったはず。
他害性を持てないのが「人の良心」、ってことなのかもしれないけど、そんなきれいな魂の人ばかりじゃないから、悪魔にとりこまれてじぶんがいいおもいしたい、っていう欲まみれの信者はいくらでもいるとおもう。

それでも、神と悪魔を対峙させるホラーストーリーがいろいろ創られるのは、一種の道徳教育みたいなものなのかなー。

『ローズマリーの赤ちゃん』がおもしろいのは、ただ「神と悪魔」の戦いの図式なんかじゃなくて。
神や悪魔より母性がいちばんつよい、っていう話になってるとこ。

母性も一種の我欲なんだろうけど、じぶんのダイレクトな欲を満たすものとはちがう。
じぶんが犠牲になってもじぶんの子をしあわせにしたい、という欲も、母性。

神は神のまま、悪魔は悪魔のまま、力を奮う。
だけど。
母性とは、「母」は「子」のために、いくらでも「変わる」。
だから、神や悪魔より、つよい。

まえにも書いたけど。
映画『エイリアン』シリーズで、主人公の不死身のヒロインを「母性キャラ」に仕立てていったけど。
シリーズ4作目で、ヒロインのリプリーは「じぶんとエイリアンのあいだにできた子」に対して、ニンゲン社会の正義をふりかざして我が子の存在をゆるさなかった。
母性より、ニンゲン社会の一員、を選んだリプリー。

リプリーなら、悪魔の子を産んでしまったら、その子を殺しちゃう結末だとおもう。
それでじぶんも自殺するかわかんないけど。
リプリーなら、そこにいる悪魔と悪魔の信者たちを一気に焼き払いそうな気もするねー。

そういうわかりやすい「正義」の話じゃなくて。
神よりも悪魔よりも、親つよし。
こういうストーリーって、ほかにもあるかな。
邪悪なものから我が子をまもった父性のストーリーなら、『シャイニング』なんかがそうだけど。
でも、あのお父さんは神の敵ではない。
ローズマリーのストーリーのおもしろいとこは、神サイドに立って悪魔と対峙したわけではないところ。

神より邪悪なものが勝った、っていう結末の物語はあるけど。
神と悪魔とどっちにも勝るニンゲン、ってストーリーは、とてもニンゲン的。
だって、わたしたちニンゲンが生きてる現実の世界には、神も悪魔もいないもん。
そんなもん、「ニンゲンの中」に存在してるものだから、ニンゲンが神や悪魔よりいちばんつよいに決まってるもん。

なんておもうのも、無信心だからかも、ねー。

聖書をかかえて、「おお、神よ」って、神に反するものに震えてこわがるような感覚が、実感としてぜんぜんわかんない。
海外の小説を読むと、日本とはぜんぜんちがう文化とかに憧れを強烈にいだくのもたのしいけど、なんかぜんぜんピンとこない感覚を知るおもしろさもある。

エクソシストの悪魔は下品だったけど、エンゼル・ハートの悪魔は知的でエレガント。
ほんとの悪魔って、ものすごい上品で知的だと、わたしもおもう。
ハンニバル・レクターおぢさんみたいに。

わるいこと、って、あたまのいい人がやれば、それが「正義」に見せれる。
良心はバカな人にも宿るけど。

わるい人ほど魅力的にみせる。
性的な魅力より、知的な魅力で。
ローズマリーに出てくる悪魔サイドの老夫婦、知的でステキだよね。
そういう人を拒絶してまでけがれなく生きようとする価値観が、わたしにはやっぱりわかんない。

一生税金払わなくていいなら(消費税も)、わたし、悪魔の友だちの友だちになってもいいよー。



posted by ぴの at 20:05| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月20日

真冬の読書

ブログを書いてるヒマがぜんぜんなかった。
といいつつ、また「もひとつブログ」つくったんだけど、そっちもぜんぜん書けてない。

やりたいこと、がいろいろあっても、ちゃんとそれをやれてない。
もともとそういうことに無能感が溢れてたわたしだけど、益々無能なかんじがすごくなってる気がする。

きょうは雪、って予報だったけど、未明の気温は氷点下になってなくて。
さいきんは氷点下になってないと「あったかい」ってかんじる。
真冬はだいたいそんなかんじで、氷点下の数字がおおきくなる時期がすごい好き。

目に見える虫がうろつかない冬は、夜、ベッドのとこのライトだけ点けて読書ができるから好き。
夏は暗闇に灯りがここだけ、って環境つくると、すぐに灯りのとこに虫が集まるからイヤなの。

ポメラサイズのぱそこんがあればいいのに、とおもう。
スマホとノートパソコンの中間ぐらいで、ちゃんとキーボードがあるの。
ノートパソコンは、持ち歩きにいろいろ気をつかいそうな気がするし、タブレットも画面が傷つかないようなバッグとかが必要なかんじがするし。
(どっちも持ってないから想像だけ)

でも、ポメラってキーボードも画面も内側に折りたためて、厚みはあるけどごろっとした本体はそのままバッグに無造作に放り込んでおける気楽さがある。
キーボードひろげてもそんなに大きくないし、画面がノートパソコンよりちいさいから、どこかのお店でつかってても人に覗かれにくいし。

お店でお仕事とかしてる人。
横を通る人から画面丸見えなの、なんでぜんぜん気にならないんだろ、って、いつもフシギ。

ものすごいいろいろ活躍してるライターさんと仲よくしてもらってるんだけど。
その人はいろいろ試して、いまは結局、アナログになってる、って言ってた。
ちいさい原稿用紙を持ち歩いて、出先ではそれにいろいろ書いちゃうんだって。
ベッドに入ってからも、おもいついた文章をすぐにそのまま書けるから、意外にベンリ、って。

それでわたしも真似して、ちいさい原稿用紙を持ち歩くようになった。



ちゃんと感想を書こうとおもうと、ちゃんと書くヒマがなくて、書かないままになっちゃうから。
読書メモ的に、ブクログに登録した「読んだ本」の話を雑に。

夢を与える (河出文庫) -
夢を与える (河出文庫) -

これ読んだ。
綿矢りささんは、いろいろ読みたいとおもってて、でもちゃんと読んだのはこれがはじめてかも。

だから、わたしはデビュー作の文体なんてぜんぜんわかってないから、アマゾンであんまり評価の高くないレビューをいろいろ読んでもピンとこないのがおおかった。

この小説しか知らないわたしは、そんなに文章が上手な人じゃないなー、とはおもった。
でも、文体をかえる試みをしてた時期のものだったみたいだから、まだ試行錯誤中、ってことなら納得。
その前後の作品も読んでみたくなる。

文章の魅力はそんなにかんじなかったけど、わたし、この小説は好き。
内容がものすごいよかった。
ちょうどわたしは「芸能界にはいったばかり」の人を身近で知ってたタイミングだったし。
書くお仕事関係のいろんなパーティとか飲み会とかでも、「芸能界」にいる人と知り合うこともあったし。

フランス人と日本人のハーフの父親と日本人の母親をもった夕子。
生まれた時から容姿に恵まれてたから、周りからの勧めもあって、夕子の母親は娘をモデルにする。
赤ちゃんのときから母親が勝手に描いた人生を歩まされた夕子。
容姿にすごい魅力があったから、特にガツガツしなくても、幸運のように「いい仕事」が舞い込んできて、そのまま売れっこになっていく。

あたりまえのように受けるインタビューの受けこたえも、夕子は事務所の指導もあって慣れていく。
将来はみんなに夢を与える女優になりたい。
そんなテンプレなコトバをさらさらと口にできるようになるけど、夕子には「夢を与える」っていう意味がわからなくて。

事務所がつけてくれたマネージャーは、輝いてる夕子を見て、じぶんも輝きたいな、ってファンがおもうことだよ、っておしえる。
いろんな職業を演じることで、その職に憧れる、とか。

でも、夕子は、なにかきたならしいコトバにもおもえて。
上から、の、思いあがったような、きたならしさ。

そんな夕子が、親も事務所も反対する無名のダンサーのオトコに恋して、つきあうようになって、そのせいでじぶんが築いてきたなにもかもをダメにして失墜してしまったとき。
「夢を与える」っていうのはどういうものか、って、やっとわかる。

その「夢を与える」という意味は、いまさら小説に書かれなくてもいいぐらいにありきたりで、だいたいの人はフツーにわかるものなんだけど。
生まれた時から親の意向のままに芸能界で生きてきた夕子が、はじめてじぶんの「意思」をもったら、そのせいでじぶんのいままでのすべてを壊してしまった、っていう残酷な経験をしてやっと「真理」を知る、っていうストーリーが切なかった。

芸能界と無縁で、外からそういう業界を眺めてる「傍観者(ファンとか、テレビの視聴者とか)」なら、芸能界で売れてる人が業界でどういう価値をつけられてるか、ってわかるよね。
努力したから、ってかならずそれが報われるわけでもない。
どんなに演技力や歌唱力をつけても、生まれついた容姿に左右されてしまうものもおおきいし。
この小説でも、芸能界では女性は若いうちにしか価値がないような話もでてくる。

じぶんでじぶんの価値をつくれない。
人から望まれた「じぶん」から外れると、価値を失ってしまう。

ラストは救いがない。
じぶんの「恋」がとんでもないスキャンダルになって、すべてを失ってしまう夕子は。
痛手を負ってかしこくなってカンタンに笑わなくなった女の子なんてだれもテレビでみたいとおもわない、ってコトバで斬られてしまう。

どんなに痛い目に遭っても、バカなままの女の子ならまだつかえる、っていう価値観。

かしこくなったなら、芸能界から飛び出してしまえばいいのに。
でも、夕子が飛び出すべきとこは、「芸能界」じゃないよね。
母親。
母親を捨ててしまわないと、夕子は一生、じぶんが殺されたままでいるとおもう。
生まれた時から、っていうか、生まれるまえから、夕子は母親の人生のための小道具でしかなかったんだから。
夕子の父親をつかまえるための妊娠。
夕子の母親はそうやって、じぶんから離れていこうとするオトコをつかまえて、生んだ子どもでじぶんの夢ゴッコを実現する。

これは芸能界の話、というより、毒親の話。
ひとりのジコチューなオンナが、オトコとムスメの人生をじぶんの欲を満たすために台無しにした、っていう話。

だよねー。

この小説。
ドラマになってるんだねー。

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原作の夕子と小松菜奈さんは、ぜんぜんイメージがちがう、ってわたしはおもう。
『乾き』っていう映画も、原作の娘と映画で娘役やった小松菜奈さんはぜんぜんイメージちがいすぎるし。

でも、「ぜんぜんちがう」っていう役にいつも選ばれてしまう小松菜奈さんは、ものすごいフシギな魅力がある女優さんなんだとおもう。
わたしはまだ演じてる小松菜奈さんは見たことないけど、いろいろ雑誌とかで見る小松菜奈さんにものすごい魅力かんじちゃうもん。

ドラマも見てみたいなー。



まだほかにも読んだ本がいろいろあるけど、これだけ書いたら時間切れ。
つづきはまたのー。
じゃあのー。






いろいろLil Wayne聞いてると、なんか無性にこのMVのLil Wayneが見たくなっちゃう。



posted by ぴの at 19:30| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする