2017年03月27日

春がホンキだす週のはじまり

先週、桜がポップコーンがはじけだしたみたいに、何粒かだけ咲いてて。
いつのまに森の下生えは紫花菜が咲き乱れてて。

でも、この週末、真冬に戻った寒さで山のほうは大雪警報が出てて。
その冷たいみぞれ混じりの雨もあがって、太陽が出てくると、急に大気がぬくぬくした。

さあ、これから春本番。
冬はおしまい。

なんていう勢いで、たぶん、今週は桜が一斉に咲く。
桜並木はもう0.5分咲みたいな紅色のトンネルになってる。

日曜の大雪警報は、とうとう冬タイヤが役に立つ、っておもったけど、わたしがうろついてる範囲は数分だけ雪になったぐらいで、あとはみぞれか雨。
箱根は雪でターンパイクが通行止めになってたけどねー。
それに、真冬の上着がいるぐらいに冷え切ったけど。

こんな真冬並みの寒さも、この週末が最後なのかな。
4月になったらタイヤの交換しちゃおう、なんて予定を手帳に書きこんだ。

ゆうべは土砂降りの中、首都高を走った。
ものすごい強風で、とくに海にかかる橋の上は風速15メートルぐらいあると、車高が高くない車でも車体は地震みたいにゆらゆら揺れるし、突風みたいなのが吹いた途端、うっかりすると隣の車線に流されちゃう。
周りの車からしぶきあがるミストは、強風のせいで一面に散って、視界がぜんぜんダメになる。
それでも、そういう天候の首都高を走るのは好き。

いつもより慎重に走るから、神経が高揚するような気がするけど、わたしの場合、反対にものすごい精神状態が鎮静する。
落ち着いて走らなくちゃ、という意識が、こころを鎮めるみたい。
これがすごい心地いい。

三浦半島に住みたいなー。
なんて、さいきんおもう。
房総半島とどっちがいいかなー。
なんて、宝くじが当たったらっていう夢みたいに、いろいろたのしくかんがえる。

でも、いまの地元で、いろいろ仕事の基盤ができてるからねー。
書くお仕事とかコンビニバイトはどこででもできるけど、アクセ作りのほうは、自然と地元展開になってる。

手伝ってもらえる人、共同企画してる工房、原材料の仕入れ、それから販売。

あたらしくオープンする某カフェで、そこのいくつかのアイテムのデザインとかメニューのイラストとか、そこで売る雑貨とかに参加させてもらえることになった。
こういう仕事が舞い込んだのも「地元力」。

急速に地元でいろんな人たちと繋がる。
都会じゃないから、地元でバイトもやっていれば、地元をうろつくたびに誰かしら知ってる人と遭遇したりする。
それが煩わしい感覚はわたしにはあるんだけど、わたしは「ここの人」なんだなー、っておもう。
「みんな顔見知り」っていう村社会にしっかり染まってるかんじ。

友だちがひとりまたケッコンした。
「知らない街に住むの、ヤダ(;_;) ケッコンやめたい(;_;)」
って、新居を決めたときにいろいろ泣いてたけど。
その新居、って、どんな遠くかとおもったら、たった3駅離れたところ。
おなじ「市内」だし。

どれだけわたしたち、井の中に浸りきってるのー。
ってわらうぐらい、わたしの世界はいまだに「狭い」。

こんなこと書いたのは、このまえの記事にもらったはてなブックマークのコメント読んだから。
(ブクマありがとうございます)

さいしょのブログに書いた「あの記事」のリンクが貼られてて。
その記事をいまのわたしはどうおもうか、その頃から変わったか、っていう質問のコメントが添えられてた。

わたしの世界は、あれから広がったようで、でもけっきょくのところは、「わたしの拠点」は変わらなくて。
なにより、わたしは「友だち」が変わらない。
学生時代のころからの友だちが、いまもずっと。

いろいろ、じぶんの手の届かない「高い」世界の人たちとも知り合ったりしてるけど。
そこに、わたしが「移る」ことはできてない。
できてない、という「不可能の壁」があるわけではなくて。
わたしはそこに憧れはいまだってつよいけれど、じぶんがそこに属したいわけではないんだとおもう。

わたしがすごい好きだった人は、世界的にも「高い」世界(ヘンな日本語になった)に属する人だけど。
わたしに少しだけ関心もってくれたせいで、少しだけ接点ができて、じぶんはそこに「繋がった」きぶんになってたときもある。
その人といろんな冗談も言えるようになって、わたし、かんぜんに冗談だけど、その人の秘書になりたい、って言ったことあった。
わたしはその人が冗談で「いいよー」って言ってくれるぐらいに軽い話のつもりでいたけど、その人は冗談でもそうは言わなくて、否定的な反応をしてきた。

わたし、そのときに「壁」をものすごいかんじたんだよね。
どんなに関心もたれてフレンドリーに接してもらってても、「壁」はあるんだ、って。
冗談という魔法を使ってでも、一瞬たりとも「キミになんてムリ」っていう意識の壁を崩せないへだたりがあるんだって。

わたしは、高い世界の人に、その人の無自覚なレベルで見下されてる、ってことをかんじて。
こういうのが、昔でいえば、身分の差、とかなのかなー、っておもったけど。
あのときの、なんかわかんない静かなかなしみがいまも忘れられない。

それは、じぶんが属する世界の低さ、のせいなんかじゃなくて。
わたし自身が、その程度のニンゲン、にすぎない、っていうこと。

だから、わたし、背伸びすることをやめた。
大好きだった人から離れようとしたのは、背伸びしてた足の疲れを自覚したから。

背伸びしないでいれる世界、が、じぶんの世界。
少しでもラクして生きたいわたしは、ステキな人はステキだと崇めるけれど、じぶんがそのステキな人とおなじステージに立ちたいとはおもわない。

Travelling Without Moving

つまりこれ、ね。

じぶんは底辺の世界にいるまま、でも、いろんな世界をのぞきみる。
それでわかったつもりでいる世界を、すべて、とおもうわけでもない意識はもってて。
でも、実際にいちいち体感することがめんどくさいから、ここにいるまま生きる、ってことに、アン・シャーリー並みの想像力を養って、満足する。

あの記事を書いたときは、これはなんども言ってきたけど、ほんと、「無邪気」なままにあれを書いてしまったからねー。
いろいろ「釣り」とか言われたけど、インターネットで釣りをする、っていうことがぜんぜんわかってない、というか、そういう行為じたい理解がなかったから、じぶんがなにもかんがえずにはじめたブログでだらだら書いただけの記事に、執拗なおっさん説とか釣り説とかがまとわりついたことが、ほんとにびっくりしたし、ほんとにフシギだった。

なんて書くことすら、いろいろ悪意で解釈する人もいるから、ネットで「ほんとのほんと」を「ちゃんとほんと」のこととつたえることのむずかしさ、は、わたしもいろいろ学習した。

だからね。
たとえば、じぶんが「ほんとになにかしたい」とおもったときは、ネットで書くことで「ホンキ」を示すことより、リアルでやっちゃうのがいちばん、っていうことも、いまのわたしにはわかったこと。
リアルでやったことを「ほんとにやってますよ」ってネットで書くことの無意味さもわかったから、わたしはネットでじぶんのすべての理解を得たいと願うきもちがぜんぜんない。

インターネットでじぶんが書くコトバは、どんなふうに誤解されてもどんな悪意で解釈されても、それはぜんぜん構わない。
そうおもうようになったのは、じぶんでびっくりするほどバズっちゃった経験があるから。

そのせいでいろんな経験をして、わたしはブログをはじめたころのような無邪気な誠実さを捨てて、とてもじぶん勝手にネット遊びができるようになった。

喪失は、人の鈍感力を育てる。
生きてると、いろんなものを意図せず「得て」、それを失うことで、いろいろと傷つく。
じぶんが傷をどうにかしようと強くなるには、それを気にしなくなるこころの「膜」みたいなのが必要になる。

その「膜」は、つまりは「鈍感力」。

無邪気や誠実さをじぶんの中から失っていくかわりに、わたしはどんどん鈍感になる。
ネットでなんでも好きなこと書いてるようで、わたしは「書かない」ものをいくつもかかえる。
その加減がちゃんとできるようになっていくほど、「書かなくてもいい」鈍さを育ててく。

なーんて、いろいろごちゃごちゃここまで書いたけど。
いま、ふと、わかった。

ちがうよ、ぜんぶ。
そんな御託はどうでもいい。

わたしはあのブログをやったことで、じぶんの人生でとても重要な存在になる人と出逢った。
その人との関係が断たれてから、わたしはいろんなことが変わった。

それだけだ。
わたしの人生、それだけだ。

あと、お母さん。
お母さんが死んだこと。
それから、その人との関係が断たれたこと。

わたしはそれを、このアカウントで遊んでるあいだに、両方とも経験して。

そうやって、変わったわたし、が、いまのブログをやってる。

わたしというニンゲンは、むかしのままはもう機能してない。
あんなふうに、なにかしらの「世界」を語ろうとする意識もない。

あのころの「底辺」より、もっと低い、ほんとのクズになった。
そのことに、なんの内省もない。
めんどくさいもん。

あのころのじぶんは死んじゃったよ。
いまはゾンビがやってるブログ。
でも、あのころのじぶんより、ゾンビのほうがたのしいよ。

かなしみは消えないから、忘れたい。
でも、忘れることができないなら、忘れたふりをする。
じぶんの過去に鈍感になる。

なにかを機能させないじぶんを再生する。

春にあたらしく生まれたようにみえる、いろんな命は、過去の継承にすぎない。
なんにもあたらしくない季節に、過去にはもってたなにかを失うものほど、あたらしいのかもね。



posted by ぴの at 20:03| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月20日

死生観を描く

部屋を整理してたら、しっかりしたつくりの書類ケースが出てきて、一体このなかになにがー、って、中にいれてたものをかんぜんにおぼえてなかった。
だから、玉手箱あけるみたいに、ものすごいわくわくしてあけてみたら、「去年」書きかけてやめた原稿のプリントがでてきた。

たった一年まえ(正確には一年経ってない)の記憶が、もうこんなにきれいに「無い」。
('_')

それも、じぶんで書いた原稿なのに。
それも、ものすごいいろいろ資料読み込んで書いたやつなのに。

それは「小説」で、お仕事で知り合った編集者さんから、単行本一冊分の小説書いたらみせて、って言われて、書いてみたものだった。

その原稿を読み返してみたら、じぶんにしては文章うまいー、っておもった。(仕事の原稿はもっとちゃんとしたニポンゴで書いてるよ!)
でも、ぜんぜんつまんなくてわらった。
じぶんでこれ、おもしろいもの書いてるつもりで書いてたわけだからね。
それが、こんなに時間経ったじぶんが読み返してみると、「よく書けてはいるが少しもおもしろくない」っていうのが、ちゃんとわかる。

人の本読んで、いろいろ批判したりしてるけど、これが万が一本になったしたら(なりません)、じぶんがものすごい辛辣な批判するはず。ぜったい。

このまえ読んだ『響』ってマンガに通じるものがある、ってのも気づいた。
じぶんで一年(も経ってない)まえに書いた小説を少しもおぼえてなかったから、あのマンガ読んだときに、それを思い出しもしなかった。
そんなじぶんに呆れたけど、こんなあたまで書いてるから、おもしろくない小説をおもしろいつもりで書いたりしてたんだねー、ってわらった。

※この記事は、そのマンガの感想ではないです。それを読んだじぶんがいろいろかんがえたことを書いてるだけ、の、じぶん語り。レビューを探してきた人は、ちがうサイトに移ってねー。


響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス) -
響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス) -

このマンガをいま出てる5巻ぜんぶ買って、一気読みした。
それをブクログに記録して、は3つつけた。

ツイッターで現役作家の人が絶賛してたので、5巻まとめて買って一気に読んだ。
だから、5巻まとめての感想。

「おもしろかった」
っていうのが、素直な読後感。
でも、このおもしろさは、文芸系出版界の内輪話への興味がほとんど。
それと、主人公以外のキャラクターがいろいろと魅力。

「うーん」
それなのに、☆を3つしかつけなかったのは、このマンガをひとつの創作作品として読むと、そんなにおもしろくはないかなー、っておもったから。

人格はいろいろとアレだけど文才は天才的、っていう主人公のキャラクター性にすべてを依存したストーリーなんだけど。
肝心の主人公の「すごさ」が、ただ「すごいーすごいー」というほかのキャラクターの絶賛のコトバで語られてるにすぎなくて、ゾクゾクするようなすごさが読んでて感覚的に伝わってこない。

ものすごい革命的な小説を書いちゃったらしいけど、その小説は一行も文章として出てこないし。
たぶん、アスペの設定なのかな、っておもう主人公の性格も、ちょっと「?」っておもうぶぶんがいろいろあって、「猟奇的な天才」の魅力はぜんぜんかんじれない。

「天才」のすごさを描く物語、ってむずかしいね。
でも、続編に期待。
このつづきも買ってく予定。


このマンガにもわたし、「おもしろくない」とかケチつけてる。

うふふ。←失礼なやつ

このマンガは、主人公の響がものすごい天才的な文才を持ってて、新人賞に応募規定をまったくムシして送りつけた原稿が受賞して、芥川賞と直木賞同時受賞までしちゃった、っていうストーリー。(それも単行本が発売されてもいないうちに受賞)
主人公はまだ15歳、高校生。
でも、すごい文学賞ダブル受賞なんてしちゃったデビュー作は、死生観を描いたストーリーらしくて(ぜんぜんその小説は1行もでてこないし、あらすじもでてこない)、こんな綺麗な死に方があるのか、って読んだ人を泣かせるような小説。

15年しか生きてない人が書く「死生観」って、どんなんだろう、ってとこに、わたしはすごいキョーミが湧いた。
だってこの主人公、たぶんアスペっぽい設定なんだとおもうけど、アスペというより、じぶんの言いたいこと、じぶんの正義、じぶんの感情、に無自覚な自信をもって、他者の心情や都合をまったくムシした行動にでる、っていう、自由性というか小児的な描かれ方しちゃってるからねー。
「他者」をじぶんの感覚でしか扱えない自信者が、どんな死生観を描いて、それで出版界に「革命的小説」として衝撃を与えるんだろう、って、わたし、ほんとにその小説を読んでみたい。

15歳で天才的デビューをした表現者、っていうと、わたしは宇多田ヒカルさんを重ねた。
音楽界にものすごい衝撃を与えるだけの力があった、っていうのは、小室哲哉さんの話なんかを読んで知った。

でも、宇多田ヒカルさんは、ものすごい他者へのおもいやりがある人で、人のこころ、をきちんと読めて、じぶん主観の外の世界にいろいろ想像が飛ばせる優れた感性をもってる人だなー、って、彼女のいろんなことを知るにつれて、わたしはそう受けとめてる。

まったくそれとはちがうニンゲン性の響が、どんなふうに描いた死生観でおおくの人たちの魂を揺るがすのか。
懐疑的、という意味はなくて、そこにわたしの想像がつかなかったから、実際にその小説をどうしても読んでみたくなった。

響は高校で文芸部に所属してて、そこには「小説」を書く部員が数人いる。
そのだれもが、部誌を発行する話になるとすぐに短篇を出せるぐらいで(これってけっこうすごいことだとおもうよね)、ひとりは響とおなじように文壇デビューする。
そのデビューした子は、おそらく村上春樹が元ネタみたいなかんじの文芸界カリスマ的作家の娘。
ちいさい頃から小説を書くのが好きで、「書くこと」にずっといろいろ努力をしてる。
だけど、響はその人の小説も、辛辣に批判する。
響は文壇の有名作家にも、辛辣な批判を本人に向かってしちゃう。

そういうキャラクター性が彼女の「特徴」として描かれているけど。
わたし、小説って、そんなに天才的でないと価値がないかなー、って、おもった。

ネットで、いぜん、「だれが書いたか」っていうのと「なにを書いたか」っていうのは、どっちがだいじか、みたいな議論を見かけたことある。
どっちがだいじか、っていう結論がでてきたのかはわかんないままだけど。

小説はどうなんだろ。

作家の人格なんてぜんぜん知らない場合、読んだ小説しか評価しようがないけど。
村上春樹おぢさんなんかの場合は、小説そのものの文学的価値、より、わたしは、春樹おぢさんの人生観をかんじとりながら読むことにキョーミがつよい。
それは、わたしが「作家・村上春樹」って人にキョーミを持つから。

「比喩」について、いろいろ批判する書評もみたけど、その人でないとでてこない比喩、っていうのはあるとおもう。
それは、その作家のニンゲン性とか感性とか、書いた人の「中」のあらわれ、だよね。

おなじプロットでちがう作家が書いたら、「比喩」のぶぶんなんかはぜんぜんちがうものになるとおもう。

他者の都合になんの配慮もできない感覚の作者が、他者を感動させる衝撃的な死生観を書けるのなら、それをどう書くのか、ってとこを知りたい。

わたし、これに失敗したからね。
それは響とわたしの文才がちがいすぎる、ってことで片づいちゃう話かもしれないけど。
発掘した「書いたのをわすれてた去年の小説」を読み返してみて、響に書けてわたしには書けなかったのは、なにがどう、わたしには欠けていたんだろう、ってかんがえちゃった。
あくまでも、文才以外の話。


いつの時代のどこの国かもわからないのに、
懐かしい風景が眼前に広がって、
この世界で人が人として生きるって、
こういうことなんだなって。

生き方の正解を感じたの。

業界に新風なんてレベルじゃない。
世界を変えられるような、
見たこともない何かを私はずっと探してて。


応募の規定を全くムシして送られてきた響の原稿を、未開封で捨てられたゴミ箱から拾って天才的才能を発掘した編集者が、響にこう言う。

その小説には、
私の価値観
感じ方
物の見方、
そういったモノを詰め込んだの。


そしたら、15歳の響はこうこたえて。

最後のシーンには特に集約されてますよね。
初雪の降る山中……
人ってこんなに綺麗に死ねるんだって、
言葉が出なかった。


編集者がこう感想を語って。
※引用3つとも、『響 小説家になる方法・1巻目//作:柳本光晴』より。

断片的に、こんなかんじの小説だとはなんどか「語られるコトバ」で出てくるけど、これ以上の情報ナシ。

なんとなくこの小説語りだけで、わたしがイメージしたのは、梨木香歩さんの『裏庭』だった。

裏庭 (新潮文庫) -
裏庭 (新潮文庫) -

それと。
「人ってこんなに綺麗に死ねるんだって、言葉が出なかった。」っていう感想から、おなじく梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』が思い浮かんだ。

西の魔女が死んだ (新潮文庫) -
西の魔女が死んだ (新潮文庫) -

どちらも『響』を読むまでわたしは読んだことがなくて、梨木さんのエッセイを途中まで読んでて、なんとなく小説のあらすじとかしらべて、ざっと知ってたの。

春になったら苺を摘みに (新潮文庫) -
春になったら苺を摘みに (新潮文庫) -

エッセイはこれね。

『裏庭』は、響のその小説のタイトルが『お伽の庭』だったことと、架空の世界で人の生死を描く、っていう設定が、イメージ的に重なったのね。
『西の魔女が死んだ』のアマゾンのレビューには、「うつくしい死」と書かれてたし。

そんなイメージが勝手に浮かんだから、わたしは『響』を読んだあと、『裏庭』も読みだした。
まだ途中だけど、この小説、すごいよ。
どうすごいか、うまく言えないけど、日本にある小説の中では異色だとおもうし、児童文学のファンタジー、ってジャンルになるのかもしれないけど、そこに描かれる死生観がオトナにも重たい。

もし、これを15歳の高校生が書いたら、ものすごい話題になったとおもう。
でも、15歳にこの死生観、書けるかな、って、わたしはおもった。

だって、主人公の響は、じぶんが言いたいことはどんな内容でも「言う」けれど、そのコトバを受けた側の人のこころがどうなるか、そこになんの想像もできてないから。
それがアスペ(らしい)、っていう設定のせいなのかもしれないけど、その相手が自殺してもフシギじゃないことを言ってのけたときは、少しだけ言うべきか迷ってた。
迷ってた、っていうとこに、「それを言っていいのか」っていう理性なんだか良心なんだかの僅かな作用がはたらいたのだとしたら、ちょっと響のキャラクター性に矛盾をかんじちゃって。

人からみると常識を逸脱した言動に、あまりカリスマ性がないんだよね。
ものすごい天才、と描かれているけど、その天才性がいまはまだわたしにはかんじれなかったから、「人の死」を彼女がどうとらえてるのだろう、って知りたい。
迷いながらも言ってのけたコトバは、ほんとに相手が自殺してもフシギはないことで、でも、言う必要性があるとおもえないただの凶器的なじぶんの雑感にすぎなくて、そんなじぶん本位のかんがえで、人をひとり殺してしまうことになんのおそれもない、っていう人が、どんな「綺麗な死」を創れるのー。

カンタンに命を損なう言動にでるのは、それ以外にもいろいろとエピソードが出てくる。
そういう彼女と、文学界に衝撃を与えた死生観を描く作家と、わたしにはどうしても結びつかない。

このマンガ、「小説家になる方法」ってサブタイトルみたいなのがついてる。
ぜんぜん小説家になる方法が出てくるわけではないから、響がどう天才小説家になったのか、彼女自身の小説家になっていく道、が描かれる物語なのかな。

なぜ、他者の都合を配慮しない人が死生観を描けるのか、その過程がマンガに描かれるといいなー。

『スプートニクの恋人』は、15歳の高校生に書けるか。
あれは、村上春樹だから書けた世界観だとおもうし、彼の人生から湧いた感覚がそこに反映されてると、わたしはおもった。

スプートニクの恋人 (講談社文庫) -
スプートニクの恋人 (講談社文庫) -

わたしには、この小説も「うつくしい喪失」を描いてるとおもって。
すみれは死んでるのか生きてるのかわかんないけど、「いないけど、いる」存在。
こんな死生観の描き方もあって、わたしはじぶんが知ってる「死」をいろいろ重ねて、この小説に強烈に惹かれた。

でも、15年しか生きてない人に、15年分の死生観しか描けないか、ってかんがえると、そんなこともない、ってわたしはおもう。

じぶんの経験にはないものは、人の経験や本などからいろいろと取りこめる。
作家は、どんな世界も創れる。

そうかんがえると、響がどんなニンゲン性であっても、そのニンゲン性と結びつかない世界観を創作することは、不可能ではない、ってこと。
それができるから、響は「天才」なのかな。

って、ごちゃごちゃかんがえた。

このマンガ、そういう意味で、いろいろかんがえるポイントがおおい。

わたしが去年書こうとした小説は、さいしょ、「ホラーなんて書いてみたら?」って話を振られて、わたしにもホラー小説書けるのかなー、なんておもいながら、「小説家」への転身の可能性にもちょっとひきずられて、それで書こうとしてみたもの。

去年のわたしは、お母さんの死、を経験してる。
その話を振られたときは、お母さんはまだ生きてたけど、お母さんは「一切の治癒の可能性」に背を向けて、治すための治療はなにひとつ受けず、進行状況を確認する検査すらすべて拒否して、「死ぬ苦痛を緩和する」医療ケアのみを受ける選択をしていた。

まだ病死するには若いこと、まだ延命の可能性はあること、それなのにそういう治療を拒否したことで、お母さんはそれまでかかってた主治医と喧嘩にもなってた。
わたしは、お母さんが「治さないで死ぬ」選択をとったことに、お母さんには言わなかったけどショックは強かった。

わたしはもう自立してあたりまえの年齢だけど、でも、弟は学生だし、卒業したあとでも発達障害的な問題を多少かかえてる弟はいろいろ自立には心配。
その弟を遺してもう死んじゃうの?
っていうのは、わたしはショックだった。
弟を捨てるの?
って。

でも、お母さんは、その病気がさいしょにわかったときは、ものすごい苦痛な状況に追い込まれる状態で、わたしと弟のために「生きる」選択をしてくれた。
お父さんはそのとき、生きてたけど、なにもしなかった。
お母さんは、あのときは子どものために生きようとした。
でも、たぶん、ものすごい苦痛だったのかもね。
だから、再発したとき、それを繰りかえす力など、もうなかったのかもね。

お父さんが家族を見捨てていい加減に生きてたとき、お母さんはウツになって、それでもわたしと弟を一生懸命育ててくれた。
ウツが治りきってなかったとしたら、子どものためには生きなければいけない親の責任感と、希死念慮と、どうお母さんは折り合いつけてきたんだろ。

再発したときは、ウツがお母さんに「もうがんばらなくていいよ」って、ラクにさせようとしたのかもしれない。

わたしはそんなことをいろいろかんがえてばかりの、そういう時期だったから、「人が死ぬのに最適な日」ってあるのかな、っておもったの。
バナナフィッシュにうってつけの日があるならば、人が死ぬのに最適な日、もあるよね。

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫) -
ナイン・ストーリーズ (新潮文庫) -

だけど、あの小説は、シーモアは自殺しちゃうけど、シーモアが自殺するのにうってつけの日、にはならなかった。
遺された家族、それから、あの小説の読者は、シーモアがなぜ自殺したのか、そのナゾをかかえて生きることになったのだから。

生まれてきたことに、人はいろんな意味をつけようとする。
それは「生」とは受動的なことだから。
じぶんの命をつくったのは、じぶんではない。
だから、じぶんが生きるのに、じぶんでその意味をみつける必要があった。
というか、意味をみつけることで、じぶんの「生」をじぶんのものに取り戻したい衝動が、知能の高いニンゲンにはあるのかも、ね。

腐敗した世界に堕とされた、なんて歌があったけど、そんなふうに人は生まれてくるときはじぶんの選択はないようにとらえる。
でも、死、は、選択の可能性を持つ。

※歌詞参照:『月光』作詞・鬼束ちひろ

腐敗した世界に嘆きつづけてないで、そこから去る選択、も、できる。
薔薇色の世界に降りてきて、ずっとここにいたくても、その意思に反して天に戻されてしまうこともあるけど、死は「神の意思」だけではなく、「じぶんの意思」にもなる可能性を孕んでる。

人はなんで生きるのか。
それは、すべてが「前向き」な価値観ばかりではないはず。
死にたいのに、死ねない人、もいるだろうし、いつかはだれもが死ぬものだとしても、できればじぶんに都合のいいときに死にたいと、その「都合のいい死」を待ってる人もいるだろうし。

子どもが巣立って、もう「親としての責務」を果たし終えた人が選ぶ熟年離婚のように、選択した熟年自殺、もあってもフシギじゃない。

たくさんがんばった人生の、最期の選択ぐらいは、じぶんをしあわせなものにしたい。
そういうかんがえを、無自覚にでも持つことはあるだろうし、「しあわせな死」ってなにかなー、ってかんがえると、愛する家族にみとられて孤独死しないこと、もひとつの「しあわせな死」だとおもうけど。
「これでおしまい。じゃあの」って、じぶんが死を納得して人生が終わる、そういうのも「しあわせな死」だとおもった。

お母さんは、「いままではずっとがんばったよ。でも、もうこれでおしまい。じゃあね」っていう選択をしたのかな。
お母さんは、死ぬ瞬間、わたしの手をぎゅっと強く握った。
あれは、お別れの合図、だったのかな、って、わたしはいろいろかんがえる。

「終わるよ。お母さんは。これで。」
って。
生まれた赤ちゃんは、母体から出たらすぐに泣く、っていうけど。
それは「生まれたよ」って合図なのかもね。
死ぬときも、人は合図するのかもね。
合図ができる死は、できない死よりは、しあわせな死なのかもしれない。

そんなじぶんの体験したいろんなものから、「死ぬには最適な日」というものを書いてみたくなった。

それで、その主人公は、「ぜったい死ぬわけにはいかない人」にした。
(もう「ホラー」とかそんなジャンル、あたまになくなってる)

どういう人が「ぜったい死ぬわけにはいかない」のか。
いろいろ考えて、わたしはやっぱり「子どもがいる親」にした。
それも、その人が死んだら、子どもがすぐに困る状況。
だから、シングルマザー、にした。
子どもの父親は、母親が死んでも子どもを育てない人。
そのシングルマザーは、ほかに子どもを愛して育ててくれる身内はひとりもいない境遇。

そうやって、主人公を「追い詰めた」。

でも、その母親は「あたまがわるくない」キャラクター性にしたから、じぶんが死んだあとの子どものことは当然いろいろかんがえれる。
現実的に、福祉、が子どもを「なんとかする」。

子どもは施設にひきとられて育つ。
施設の子がしあわせか、っていう問いもあるかもしれないけど、両親揃ってる家庭で育てられた子どもがすべてしあわせにはならないように、親のない子たちが施設で育つことは「不幸」とは限らないかな、っておもった。

じゃあ、施設に子どもを委ねれるなら、親はそれで「安心」にはなる。
それでも「親が子どものために死ねない理由」はなにかな、ってかんがえた。

それは「愛」かな、っておもった。
子どもを愛してる親ほど、じぶんの愛を直接注げない境遇に子どもをひとりきりで遺すことはつらいよね、っておもった。
でも、「愛」とは、執着。

人は執着を現世に遺せば、いつまでも死ねない。

その執着を捨てれるとき、はあるのか。
って、かんがえた。

愛して愛してやまない我が子。
でも、その子と離れることができるとき、が、親にはあるのか。

それがなければ、親なんて地獄だとおもった。
子どもから離れられない親は、生きながら地獄にいるようなものだとおもった。
子どもがどんなに親を必要としてる状況だとしても、ニンゲンは絶対的にその子のそばにいれる保障なんてない生き物なんだから。

子どもを遺して死んでいく親は、不幸でしかないのか。

ちがう。
子どもを愛する親こそ、そんな不幸を背負わないで死んでいいはず。
って、わたしはおもった。

愛する子どもをとても残してはいけない状況で、親は死ななければいけなくなって。
その死を、「死ぬには最適な日」にする、そういう物語をかんがえた。

子どもは孤児になってもしあわせに育てられることになりました。めでたし、めでたし。

っていうファンタジーではなくて。

どう育てられるかわからない不安を残したまま。
でも。そんな子を遺して死んでいく親が、「いま、死ねる」とおもえる瞬間に、穏やかなきもちで人生を終えれる。

そういう物語を書こうとおもったの。
わたしは子どもを生むつもりもなかったから、シングルマザーのモデルは、わたしのお母さん。
あとは想像のキャラクター。

障害者施設でわたしはずっとボランティアをやってるけど。
そこで知り合った利用者さんの親の人の話をいろいろ聞くこともある。
いまの日本では、ものすごい重度の障害者のほうがいいんだって。
ちゃんと福祉制度が行き届いてて、身内が万が一ぜんいん死んでいなくなっても、ちゃんと入所施設で死ぬまでめんどうみてもらえるから、って。
でも、いろいろ福祉制度の網目から落ちてしまう障害区分の人たちは、家族がいないと自立なんてできないのに、家族がいなければヘタすればホームレスみたいに「放り出されて」しまう可能性もあるんだって。
そういう状況の障害の子どもを持つ親の人は、「ぜったい死ねない。死んでも死ねない。だからじぶんより先に死んでもらうのがこの子のしあわせ」って話してくれたことがあった。

わたし、その話、すごいショックだったんだよね。
じぶんの子が先に死ぬことがしあわせになる、そんな社会に、じぶんも生きてるんだって。

だけど、社会は理想通りにカンタンには変わらない。
いつか未来はもっと理想に近い社会になるかもしれないけど、「いま」を生きる人は、「いまの社会」で子どもを育てるしかない。

子どもを不幸にしたくない親ほど、死ねない。
そんな親に、「しあわせな死」はないの?

って。

人を守って生きてる人に、しあわせな死はないの?
人を愛する人ほど、死ぬことが苦しみなの?
って。

わたしはそんなことをぐるぐるとかんがえてた。
お母さんが死んだあともいろいろかんがえて、小説を書きだした。

だけど、それを途中で投げ出したのは、ぜんぜんホラー小説ではなくなったから、編集者さんにみせても本にしてもらえる可能性はない、っておもったから。
なんとなくほかの原稿のシメキリ優先になって、バイトもバカみたいに忙しくなって、いろんなことをその小説より優先させて、わたしの意識からも薄れて、さいごは消えて、書類ケースにいれたまま埃がたまるまで忘れちゃったんだとおもう。

その書類ケースは100均なんかのじゃなくて、やすくないやつだから、その原稿はだいじにしてたつもりなんだろうけど。

でも、いまこうやって時間を置いて読み返してみると、小説としてぜんぜんおもしろくない。
いまのわたしは、じぶんが書いた主人公のシングルマザーにぜんぜん感情移入できない。
主人公を、子ども嫌いなわたしがシングルマザーなんかにしたことが、そもそも間違いだったのかもしれない。

主人公に感情移入しなくても、小説って書けるものなのかな。
それもわかんないけど。

じぶんといろいろ価値観がちがうぶぶんを持つ主人公の小説を、書けるもんなのかな。
「死生観」のぶぶんは主人公に植えつけることはできても、じぶんの命より愛しい存在をもって生きる「よろこび」がわたしにはわからない。
そんなめんどうくさいものをかかえて生きたくはないから、わたしはひとりのほうがラクなんだし。

15年しか生きない響が、中高年世代の人たちも唸らせる死生観を描ける。
ひとりでしか生きたくないわたしが、じぶん以外のものの価値観を描けない。

文才の差以前に、なにかがわたしには響より欠けているのか、響はそれができるから「天才」であるのか。

小説家として「天才」っていうのは、具体的にどんなの?

その未完成なまま、じぶんの限界を知って、永久に投げ出したままになりそうな死生観系小説は、これが元ネタ。

《即興小説》トンネルの向こう


なつかしいよねー。「即興小説」。
いまもまだあるんだねー。
またやりたいなー。
でも、じぶんのアカウントのパスワードわすれてた('_')

母親が、ある日突然いなくなった子どもを探すの。
いつまでも追いかけつづけて、いつかあるとき、それを諦める瞬間が来る。
そのときに、親は「子を遺して死ねる」。

死ぬわけにはいかない人が受け入れる死は、「諦め」かな、っておもって。
でも、その「諦め」は、不幸なものではない、ってことを書きたかった。

響なら、そんなこともおもしろく書けないのならモノカキにしがみついて生きてる意味ないじゃん、って言いそうだよね。
書けないのに、どうして生きてるの?
って。
良い余生を、って。

へいへい。←こんな反応がいま自然にでたわたし、響がきらいなのかも。文才の嫉妬なんかじゃなくて、なんかきらいっていうより、ほんとに魅力がわかんないんだよね、あのキャラ。

うふふ(^_^)←うふふ、ってわらいはいろいろと万能ねー


あ。
即興小説読み返したついでに。
わたしのウソブログ「これ」とか「これ」の元ネタは、これです。

《即興小説》ガラパゴスの作家



『響』のマンガは、主人公以外の「小説書き」の人たちの書く小説とかがいろいろおもしろそうだから、その話はまたそのうち書く。(カクカク詐欺)




posted by ぴの at 20:31| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月17日

ベールの月から氷の月まで

このところネットであそぶ時間、というか、気力がぜんぜんないかんじだった。

ひゃー。
花粉がものすごいらしく、わたしはクシャミがものすごい。
一回でるとかならず連発になるから、レジしてるときはタイヘンだし、運転中だとクシャミしてるときって自然に目を瞑ってるからちゃんと前みれないし。
あと、目と耳とほっぺたが痒い。
鼻づまりとかはそんなにひどくないから、花粉のせいなのか、乾燥しすぎのせいなのかわかんないけど。

桜の枝はつぶつぶがだいぶぷっくりしてきたから、下旬には咲きそう。
森のところのソメイヨシノが一本だけ咲いてた。
ケヤキの枝も葉っぱがでるまえ、っていうかんじになってるし。
カナブンとか蛾がもう出てきてるし。
でも、ここ数日、夜明けは車が凍ってる。
このまえは夜中に雪降ったし。

もう冬タイヤはずしたいけど、こんどの雨の予報の日は気温がひくいから、まだちょっと交換しないほうがいいのかなー、って悩む日々。
あいまいな日がだらだらつづいても、季節は確実に春に向かってく。
春とか夏が好きじゃないわたしは、まいとし、あたたかくなっていくにつれてウツなきぶんになってたけど。

このまえ、夏がおわったころのことを思い返した。
「暑い日」が消えて、「あたたかい日」が少しずつ減っていく冬に向かう時期。
そのころのわたしは、少しずつ冷えていく世界にわくわくする。

ことしも確実に、その「わくわくするとき」が来る。
春に桜が咲くのを待ち焦がれて冬をじっと耐える人たちのように、木々が紅葉して霜が降りはじめるのを夏中待ち焦がれる人もぜったいいるはず。
わたしはそっち派。

夜中にみるオリオン座の位置が少しずつかわっていく。
とおくの街の灯りがきらめかなくなってく。
そんな変化に、冬のおわり、をかんじる。

ことしはどんな夏になるのかな。
ものすごい暑いのかな。
でも、そのあとでまた秋がくるね。
そのときをたのしみにして冬じゃない季節を乗り切ろう。



月光が地表に降りてこないフシギな暗い夜を体験した話を書いたけど。
このまえの日曜は満月で、びっくりするぐらいの明るさを体験した。

薄曇りだったから、空全体にうっすいベールがかかってる状態。
でも、一等星ぐらいは透けてみえてた。
それぐらいの半透明な夜空に満月がでると、空全体が明るくなるのね。

震災のあとの計画停電で、懐中電灯のうまい使い方をおしえてくれた人がいた。
透明じゃないコンビニの白い袋に懐中電灯を入れて、高い位置にぶらさげておくと、周りぜんたいを照らすように灯りが拡散される、っていうの。

それとおなじ効果なのかなー、って、薄曇りの満月におもった。
満月はそれだけでものすごい明るいけど、クリアな夜空より薄い雲が広がってるほうが、もっともっと明るい。
どれぐらい明るいかっていうと、地表ぜんたいが「暮れきってない夕暮れ」ぐらい。
三浦半島で、そんなものすごい明るさを体験した。
真夜中なのに、海はぜーんぶ、水平線まではっきり見渡せるの。
とおくの海に浮かんでる漁船も細部までみえるし、とおくの家も輪郭がみえる、っていうんじゃなくて、窓とか屋根の模様までフツーにみえるし。

景色ぜんたいをちゃんとみてみたくていちど昼間走ってみたいなー、っておもってたけど、その「景色ぜんたい」がちゃんとみえてびっくりした。
意外な場所から海がみえてたのも発見した。

雲は流れてたから、そのうちだんだんと薄い雲のベールが消えてって、クリアな夜空になっていったのね。
そしたらおもしろいことに、夕暮れから夜になったみたいに、ぜーんぶみえてた景色が暗闇に溶けてって、満月の煌々とした灯りでいろんなものの輪郭がみえるていどになった。

その夜の野村訓一さんの旅のラジオで、電動自転車を勧めてた。
行動範囲が倍にひろがるから、って。

フツーに暮らしてると、行動範囲なんて徒歩と公共の乗り物に頼ることになる。
電車やバスはとおくまで行けるけど、「その路線」の付近しか行動範囲は広がらないことになる。
徒歩や路線が決められてる乗り物が行きわたらない世界、を知らずに生きるのって、ものすごいもったいない。

電動自転車やバイクや車は、これも「道路」がある場所に限られるけど、でもずっと自由性が増して行動範囲が広がる。
車があると、とおくに旅行しなくてもいいきぶんになるのは、日常の世界にいくらでも「あたらしい発見」が転がってるからだとおもった。
砂漠で非日常的な月夜を体験する旅もステキだけど、車でふらっと出かける場所で、毎週ぜんぜんちがう「夜」の景色をみれる、って、ものすごい贅沢なきぶんになる。

電車やバスもおわってる真夜中に、こんな半島でステキな夜を体験できるのは、わたしには「車」があるから。
びんぼーでも車を持つ理由、は、みたことのない世界、を旅できるから、なんだとおもった。



駐車場でだれかがエサをやってるせいで、ここらへんの野良猫がたーくさん集まって駐車場内に住みついてる。
それをだれも文句言わないから、かんぜんにネコ天国になってる。

車から降りるとボスネコがこっち向いてて目が合う。
それで、わたしが「にゃあ」って言うと、かならず「にゃあ」ってこたえてくる。
それをくりかえしてたら、ちがうネコがふらっとあらわれて、いっしょに「にゃあ」ってこたえてきて、そしたらまたちがうネコが出てきて、何匹ものネコが集まってきてびっくりした。
わたしが「にゃあ」っていうと、みんな「にゃあ」って言うの。

すごいー。
なごむー。

わたし、ネコ語が話せるようになったよ!
意味はぜんぜんわかんないけど、たぶん、なんか、会話が成立してるっぽい。
敵対してるかんじはないから、たぶん、友好的な会話。



いつもおなじような話ばかりしか書いてないけど(でも、わたしにはまいかい、あたらしい発見、みたいなのを書いてるつもり)、またラジオの話。

草なぎさんと香取さんのラジオは相変わらず聞ける日曜は聞いてる。
SMAPが解散したあとのことしになってから、香取さんがものすごいあかるくなった。
あの「やる気のない」去年のラジオのかんじは、ああいうキャラだったわけじゃないんだねー。
なんかいい意味でいろいろふっきれたのかなー、っておもうぐらい、ものすっごいあかるい番組になって、ちゃんとスタジオで収録されてるから「音」もちゃんときれいな番組になった。

わたしはますます村山由佳さんのラジオに夢中。
番組中に流れる曲はわりと古い(&知らない)のがおおくて、わたしの感覚にはぜんぜん合わない昭和の曲がけっこうある。
演歌でもないし、POPSともちがうし、ああいうジャンルってよくわかんない、っていうかんじの曲。

でも、そのわりにリスナーは中学生とかけっこういるんだよねー。
ハガキを読まれる中学生がおおいもん。
いまの中学生って村山由佳さんの小説はどんなのを読むんだろ。

このまえの深夜勤のときに配達されてきたスポーツ新聞の一面で「かまやつひろし」さんの訃報記事をみた。
店長が「うおー。むっしゅがー」って騒いでたけど、わたし、どんな人かぜんぜんわかんなくて、騒いでた店長をムシしてた。

そしたらこのまえの村山由佳さんのラジオで、追悼の意味でかまやつさんの歌がかかった。
それで、こういう歌を歌ってた人なのかー、ってわかった。

ゲタをならしてヤツがくるー、っていう歌。
これは昭和のPOPS?

村山由佳さんのラジオが心地いい理由は、聞いててなんとなくわかった。
30代独身の女性リスナーが、休日はひとりでたのしく過ごしてるのに、それを会社の男の上司とか女の部下からバカにされる、ってメールしてきて。
村山さんがこんなステキな休日の過ごし方が理解できないその上司と部下に怒って、この番組のリスナーの女性みんなに共感を呼びかけてた。
その番組は「深夜の女子会」って番組だからねー。

あ、この番組の女性リスナーって、こういう「一体感」でつながってるのかも、っておもった。
女は群れる、っていうやつ。

わたし、そういう「女子グループ」みたいなのはぜんぜん好きじゃないし、そこにうまく属せないんだけど。
でも、好きな人(この場合、好きな作家の村山さん)から「みんな」って呼びかけられる中に、じぶんもはいってたら、うれしいかんじになるかも。

そうかー、これが「群れる」よろこびかー、って、なんとなくちょっとわかった気がした。
深夜にひとりきりで聞いてても、ぜんぜん「ひとりじゃない」きぶんになれる。

ピストンさんの夕方の番組でも、リスナーの一体感、が熱いけど。
あの番組は「うちを聞いてるリスナーはJ-WAVEのほかのオシャレ番組を聞いてるリスナーとはぜんぜんちがうろくでもない人たち」みたいな自虐の一体感で結ばれてるからねー。
それがおもしろいし、じぶんもそのろくでもないリスナーの一員にはいってるのがたのしい雰囲気だし。

村山さんの番組は男性も聞いてて、メールがときどき読まれる。
シニア世代の男性が、妻をだいじにしなくてリコンされちゃって。
リコンしてひとり暮らしするようになってから、妻のタイヘンさがわかって、元妻にそれを伝えたい、みたいなメールしてきたことがあった。
村山さんは、別れた妻はあたらしい人生を進んでるのだから、もうそっとしてあげて、っていうコメントを返してた。

リコンした妻のことを思いやってるようで、けっきょくは、じぶんの感情が優先の元夫の人。
人を愛する、っていうのは、じぶんの愛を成就させることばかりがだいじじゃない。
相手のしあわせにじぶんはなにもできない、相手の人生にはじぶんは必要ではない、っていう現実を受け入れることも、「愛する」ことのひとつ、だとおもう。
あの男性のメールは、たぶん、妻とやり直す後押しをしてもらいたいのかなー、っていう甘えがかんじれたから(これはわたしの主観)、その甘えをピシャリと断った村山さんはさすが、っておもった。

ただ、この番組。
男性のホンネ、っていうコーナーがあって、いろんな著名な男性ゲストにいろいろ話を聞くのね。
その男性ゲストにかならず、どんな女性が好みか、って聞くんだけど。
ものすごいステキな人生を送ってきてる男性でも、「オトコをたてる控えめな人」とか、「オトコがつらいとき支えてくれる人」とか、「自立しててもオトコより弱いとこをみせる人」とか、もうねー、「はあああああああ?」っていう、進化しないオトコ、のがっかり女性観がわりと語られちゃうから、びっくりする。

いちどでいいから、「好きな女性には好きなように生きてほしい。僕はそれをそばでささえたい」とか言うオトコ、いないのー、っておもっちゃう。
(そういう人、いたかもしれないけど、わたしが聞いたときにはそんな理想は語られてないー)

女はつよくていいし、男はよわくていいし、女らしさっていうのは男に都合のいい女という意味ではないし、男らしさっていうのも女が依存できる男という意味ではないし。
相手にいろいろ望んでるうちは、恋してないよねー。
恋しちゃったら、もう相手はそのまままるごと、なにもかも「好きだからいーのいーの」で片づく。
そういうのが「恋」っていう気がする。

わたしは、すごい好きだった人のこと、その人のいろんな欠点も好きだった。
そういう欠点がいろいろある不完全性が好きだった。
でも、その人はわたしの欠点をいろいろ並べて、それがゆるせなくて、わたしから離れてった。
相手はわたしのこと好きだってなんども言ってくれてたけど、ほんとはわたしにぜんぜん恋してなかったの。
うふふ。

話がラジオから逸れたー。

っていうわけで、村山さんのラジオはすごい好きなんだけど、かかる曲とか、でてくる男性とかが、ちょっといろいろ感覚が古いかんじがして、そういうぶぶんだけわたしには合わない。
そういうの含めて、じぶんの世界観が広がるような村山さんのラジオに、わたしは夢中なのです。

村山さんの小説の創作上のいろんなエピソードもちょくちょく語られるから、そういうのもすごいおもしろい。



わたしのバイト先の「超絶人手不足問題」は、次のステージに移行した、ってかんじ。

急募の求人をいろんな媒体にだしてるらしいけど、うちみたいな業種でいちばんほしいタイプの人(協調性があり体力溢れるマルチタスク脳常識人)なんていうのはぜんぜんひとりも応募してこなくて。
シニア求人の媒体にも広告だしたから、ちらほらときた応募の人たちは、ひとりをのぞいてぜんいん還暦以上。
あと、ひとりは中年世代の男性だけど、病弱すぎてどこの面接も落ちてうちに流れついてきた人。

どう病弱かっていうと、特定の疾患をかかえてるわけではないみたいで(本人申告)、いろいろとカラダがよわいのでフツーにはたらくのがムリ(本人申告)、っていうらしい。
でも、うちは雇った。

還暦以上の人たちも、トランプさんみたいに大統領やっちゃうぐらいに精力的な高齢者タイプじゃなくて、うちの作業は体力的にいろいろとムリじゃないかなー、っていうかんじの人たちばかり。
でも、うちはみんな雇った。

これで少しは埋まらないシフトは埋まることになった。
(まだまだ人手不足はぜんぜん解消されないけど)

全面接落ちしてきた病弱な人は、「そういうわけで、体力つかう作業はさせないように。辞められちゃうから疲れさせないように。レジに立っててもらうだけでいいんだから」っていう店長指示つきで、いっしょに組む人たちに紹介された。
超還暦な人々は、「そういうわけで、難しいことは覚えれないし、体力つかう作業はムリなので、カンタンなことだけさせて。ムリなことさせて辞められないように」っていう店長指示つきで、一緒に組む人たちに紹介された。

でも、みんな、時給おなじ。

ここがポイント。

「いろいろと免除される新人」には「ラクな作業でちゃんと時給もらえる」ホワイトな話だけど、その新人たちとおなじ時給ではたらく「新人のやれない分の負担増になる先輩」は超絶ブラック化。

それがバカらしくて、仕事できる人たちが辞めてこんな超絶人手不足に陥った、っていうのに、学習能力ないよねー、うちの経営者。
能力給で少しは時給差をつければいいのに。

これからは高齢化はあたりまえになってくるから、高齢スタッフの作業免除はあたりまえ、って店長から説明された。
それはいいんだよね、べつに。
でも、免除される人と、そのぶんの負担増になる人と、だーかーらー、時給の差をつけなさいー。

工場ではたらいてる友だちのとこも、ものすごい高齢者がはいってくるようになって、でもだいたいは作業がぜんぜんムリでタイヘンなんだって。
でも、高齢者を雇用すると会社にお金がはいるから、だれひとりクビにはならないんだって。
うちのホログラムおぢさんみたいな、いろいろニンゲンとしてアレ、みたいな人はいないらしいけど、ほんとに呆けちゃってるんじゃ……、っていうぐらいに心配な人とかいるんだって。
でも、クビにはできないから、その人のいろいろ記憶のないかんじのはたらきかたをまわりの人たちがフォローしなくちゃいけないんだって。

さいわい、こんどうちにはいってきた超還暦な新人さんたちは、ホログラムおぢさん系の人はいまのところいなくて、みんなにこにこしてる人なので(そのかわり、ホログラムおぢさん以上になんかいろいろぼーっと立ってるだけ)、一緒に組んでもこっちのこころはすさまない。

ゴミ捨てぐらいはします、って言ってくれたから、ゴミ袋交換するだけのことをおねがいしたら、1時間ぐらい戻ってこなかった。
わたしも長蛇の列になったレジ離れられなくて、様子みにいけなかったけど、どうやったら1時間もかけてゴミ袋の交換するのか、ちょっと知りたい。

納品のとき、お蕎麦ひとつ棚にいれるのに、20分ぐらい迷ってて、そのあいだにわたしがぜんぶ終わらせて、そのひとつのお蕎麦のいれ場所がまだ決まってなかったから、「ここですよ」ってポップがある空いてる場所をおしえてあげた。
「あ、(商品の)名前がちゃんと書いてあるんですね」
って言ったから、「どれもちゃんと札がついてるから、そこにいれてくださいねー」って説明したけど、つぎの納品(25分後にきた)のときにはそのこと覚えてなかった。

じぶんがいろいろ買い物してきて、こういうお店の商品の陳列ってじぶんでみてきてるはずなんだけどなー、って、いろいろフシギになるぐらい、シニアスタッフの人たちは、商品をちゃんと棚に並べることができる人が「皆無」。
女性も男性も。

ちゃんと、っていうのは、ものすごい素晴らしい陳列、っていうレベルのことではなくて。
買いやすいように並べる、ってことができないの。
棚にいろんな向きで、つっこんじゃう。
ちがう商品どうしをヘーキで重ねちゃう。
パンとか潰れるぐらいにギューギューに棚につめこんじゃう。
ポテチは袋の中で粉々になるぐらい押しこむ。

それをじぶんがお金出して買いたいですか?
って、ほんとにフシギになる。

じぶんがお客さんになったら買いやすいように商品並べてくださいねー、っていうおしえかたをしたけど。
でも、ダメなの。みんな。なぜか。

年をとると、脳で「モノの向き」とかの認知がかわるのかなー、っておもったけど、どうなんだろう。

あと、やっぱりいろいろ覚えることがタイヘンみたいで(とくにいまのうちの業種って、バイトが覚えるべきこと膨大すぎて若い脳でもすぐにはムリ)、レジでさいしょに責任者番号いれるのをぜんぜん覚えれなくて(番号を記憶できないんじゃなくて、そのステップが覚えれないみたい)、離れてたレジに立つたびに「レジがつかえませんー」って呼ばれる。
レジ精算のさいごに年齢層のキーを押すとレシートが出てくるんだけど、そのキーを押すのを記憶できなくて、「あのー、レシートがでてこないんですけどー」ってまいかい呼ばれる。
だから、ひとりでレジ任せれないから、ふたりいても、ひとつのレジしか開けれない。

並んでるお客さんから「もう一台開けろ。急いでるんだ」って怒られて隣のレジ開けると、そっちで宅配便、もうひとつでネット決済とか重なると、もう新人にはお手上げ。
でも、わたしはひとりしかいないから、ふたつのレジを同時に受け持つ。
お客さんはとうぜん、怒る。
レジを途中で離れちゃうわたしに怒るから、わたし名指しの苦情が増える。

レジに立っててくれればいいから、って店長は言うけど、レジ番すら任せれない状態の人ばかりだから(そのうち慣れたらもっとマシになるとおもうけどねー)、時間かけてもっと研修やってから現場にあげてー、っておもう。
研修やる人員もいないから、さっさと現場投入されちゃって、シフト穴埋め地獄から免れたい店長はどんどんシフトから抜けてる。

さいきんの新人さんの特徴は、年齢性別問わず、みーんなトイレ掃除がキライ。
好きな人いないとおもうけど、ゴミ袋の交換に1時間かかる人も、トイレ掃除させると3分でおわらせて出てくる。
うちのトイレ、汚れてなくてもひととおりの掃除すると10分はかかるのに。
あとでみにいくと、ぜんぜん便器の汚れがそのままだったり。

このまえは男性の小用トイレにウンコしてった人がいて(洋式が使用中だったんだとおもうけど)、掃除当番だった新人がすぐに「掃除できません」って戻ってきた。
みにいったら、「こんなことしたやつ、お尻もげちゃえー」って呪いたくなるような状態だったけど、掃除しなくちゃいけない状態、でもあるからね。
掃除しないと、ってわたしが言ったら、「あんなの、掃除ムリですよ。業者さん呼ばないと」って言って、そのまま掃除拒否されちゃったから、仕方なくわたしがやった。
わたしはどんな状態の汚トイレも、もうヘーキで掃除できる体質になっちゃったからねー。

その新人さんが、「きぶんがわるくなるから汚れたトイレの掃除はムリです」って訴えたので、新人さん一律、トイレ掃除の作業は免除された。
ムリにやらせると辞められちゃうから。
でも、男子もトイレ掃除をイヤがったから、「わるいけど、トイレはこれからぴのさんがやってくれない?ぴのさんがいない日はじぶんか店長がやるから」って店長代理に言われて、わたしと店長代理と店長の仕事になった。

トイレ手当つけてくれるならいーですよ、って言ってみたけど、そんなのつけれるわけないでしょ、って怒られた。

ぜんぜん仕事できないからクビになりそう、って、ひとりのシニアスタッフの人が泣きそうになってわたしにこっそり言ってきたけど。
ほんとにその人もぜんぜんいろいろできない状態なんだけど、「うちはぜんぜんクビにならないから、心配しないでヘーキですよー。いまのコンビニってどんな新人もいっぺんにおぼえれるわけないかんじになってるから、のんびりやってってくださいー」ってわたしはこたえた。

職場の高齢化、ってこういうことなんだ、って、少しずついろいろ体験で知ってく。
わたしはいい体験させてもらってるかも、っておもう。

「フツーにできてあたりまえ」の基準が、年齢によって変化する。
その変化を受けいれないと、高齢者の雇用ってムリがでてくるんだとおもう。

いまのバイトの公式マニュアルは、現役世代向け。
これからシニア世代のバイトをどんどん雇用しなくちゃなりたたない業種なんだから、バイトに求められる「最低限の基本作業」のレベルをさげるしかないとおもう。
それを標準時給にして、あとは、基本以上のいくつかの作業をこなせる人には、そのぶんの能力給をプラスする形にするべきー。
基本作業しかしないでいい人と、フル作業できる人と、時給に差をつけるべきー。べきべきー。

それで、いちおうの公平感、って保てるとおもうんだけどー。
負担の不公平感で、仕事できる人が辞めちゃったら、それは負担免除されてる新人のせいじゃなくて、おバカな経営者のせい。

ホログラムおぢさんは、あいかわらずぜんぜん仕事をおぼえる気もなくて、だいたいの作業を組んだ相手にやらせて、じぶんは気分で暴言吐いたりさぼったりしてるだけだけど。
じぶん世代の新人がはいってきて、うれしいみたい。
同世代新人たちみんなに「ぴのって人には気をつけなさいよ。人をコキつかうからね」って忠告しまわったらしい。

新人さんたちはなぜかそれをみんな、わたしにおしえてくれたので、わたしはそれを知ったの。
(あなた、こんな悪口を言われてますよ、って本人におしえるのは年齢関係なくいるねー)

わたし、いつホログラムおぢさんを「コキつかった」っけ?
(?_?)
って、目が「?」になっちゃったけど。

もしかして、このまえ、雨で床が濡れてて、ホログラムおぢさんが滑りそうになって濡れた床にものすごい口汚く罵ってたから。
「床が濡れてたらあぶないから、裏にあるモップで拭いちゃってください。モップはあとでわたしが洗うから、そのままにしてていーです」
って言ったことぐらいしか、なにか作業を頼んだことはほかにはぜんぜんない。

あれも、わたしが拭くべきだったわけかー。

って、あのおぢさんの思考が理解できた気がして、「あー、あのときのことかなー」って、うふふ、ってわらった。
あとで新人にそんなこたえかたしたじぶんを思い返したけど、それじゃ、わたしがコキつかったの認めてるみたいじゃんー。

ぴのはコキつかう鬼オンナ、って、新人さんに広まりそう('_')←広めたのはおれ



書くお仕事は、いろいろエゴサーチしたら、いろいろ電子書籍化されてるの発見した。
著者本人にぜんぜん連絡ないじゃんー、っておもったけど、なんかものすごい過去に「電子出版するけど、儲けがでたらその分払うね」っていうかんじの雑な契約書にサインしたことある。
それの契約のぶんらしいけど、いつのまにレーベル変わってない?って、よくわかんない状態でぜんぜんわかんない場所からじぶんの書いたものが売られてた。

「儲けがでたらその分払うね」の契約は、ちゃんと実行されてたらしくて。
このまえのギャラの振込みのとき、わたしが計算したのより小銭な半端な額がおおかったから、これはなんだろー、原稿料がアップしたにしてはものすごい少額でハンパ、ってナゾがってたけど、その数百円の半端な金額が「儲けがでた分」らしかった。
まえにも振り込まれたことあったけど、そのときも数百円の世界。
あいかわらずの「微額」。

こんなの、幼稚園児のお小遣いじゃんー、っていうかんじの金額を、おれ、稼いだ。

さいきん、二次使用のものがいろいろ増えたし、じぶんが書いたものがどんなかんじでじぶんの稼ぎになってるのか、ぜんぶちゃんと把握しきれてない気がする。
なんて言っても、放っておいたら口座に数億たまってた、なんていうたのしい話じゃなくて、なんかいろんなとこから小銭があつまってる、みたいな募金箱的。

アクセ作りのお仕事のほうは、この季節柄、卒園式や入園式でつけるオリジナル名札の依頼を幼稚園からいただいたり、パーティのゲスト用のコサージュのまとまった依頼があったりして、こっちも納期までいろいろいそがしかった。



春樹おぢさんの短篇の話も書きたかったけど、またこんど。
って、いつもいろいろ先延ばしにしてる話題がたまってて、そういうのをいろいろわすれてって、いろいろなかったことになってる。

春樹おぢさんの小説は、いちど読んだだけじゃ、わたしのあたまは「上澄み」しかわかんない。
でも、時間が経ってから、じわじわと、その上澄みの底に沈んでるもの、に気づいたりする。

『イエスタデイ』って短篇で、わたしがものすごい惹かれた箇所があった。
さいしょは、そこに書かれたままのものに惹かれたんだけど。
なんかそこの箇所を、いま、このブログを書くのに読み返してみて。

あ、これ、比喩なんだ、って「いま」気づいた。
そういうのに気づくの、わたしのあたまは遅すぎ。

比喩だと気づいて読み返すと、春樹おぢさんはちゃんとそれが「比喩だよ」ってわからせるようなことを書いてる。

いちど読んで、そのあとずーっと、あたまの中で読んだもののいろんなナゾ解きがはじまる。
それが春樹おぢさんの小説のたのしさだし、それがいろいろわたしのあたまには疲れてしまうから、読みたいのにすぐ手を出さない「ためらい」にもなってるんだとおもう。

『イエスタデイ』のー、氷の月はー、詩的なステキイメージとかじゃなくてー、氷の月イコール木樽のおにーさん自身、なんだねー。
20センチの厚さの氷の月、は、二十歳の木樽おにーさん、ってことじゃないのー?

っておもったんだけど、ちがう?(自信がない)

だれかー、こたえあわせしてー。


女のいない男たち (文春文庫 む 5-14) -
女のいない男たち (文春文庫 む 5-14) -




じゃあの。


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