2017年08月21日

この夏はまいにち「ガツン、とみかん」食べてる

なんだかんだで、またブログ離れしてた。
8月になったらまいにちまいにちまいにちまいにち雨で、いつ洗車したらいいのー、っておもいながら、40年振りっていう記録に迫る勢いの長雨の日々をきぶん的にたのしんでる。

ちょっとまえはさむいぐらいで、長袖をひっぱりだした。
でも、今週はまた晴れときびしい残暑が戻るとか。
ここまで雨がつづくと、30度を越える晴れた夏日はひさしぶりにうれしくなる。

雨はわたしの精神が安定する。
それを証明したような夏だった。

こんなに穏やかな幸福感っていうのをかんじたのは、じぶんの人生でも少ない。
べつになにかはっぴーなことがあったわけでもないんだけど、単なる「いつもの日常」がおだやかなメンタルで過ごせてる。
いろいろ哀しい別れがまたあった年だけど、そういう哀しみはこころを蝕む毒性があるわけでもないし。
日常的なトラブルもいろいろあるんだけど。
バイトでも、ほーんとうんざりするようなことがあったけど、数時間でわたしの魂は雨で浄化されて、じぶんの中から「うんざり」感がきれいに洗い流されちゃう。

この先、いろいろじぶんにとってきつい展開になっていく未来に、安寧としたことしの夏をおもい返すことがあるはず。

もし、死後の世界に「天国」があるんだとしたら。
じぶんの欲望がすべてかなえられるような酒池肉林的な極楽じゃなくて、波のない凪いだ海の浅瀬に膝まで浸かって、空と海しかない視界にぼーっとひたってるだけの時間が静かにつづく世界、をおもい浮かべる。



夜中のドライブはこの夏もつづけてる。
このまえは、ちょうど引き潮の時間の夜中に海に行って。
波が穏やかだったから、ついまっくらな海岸で裸足になって、波打ち際にぽちゃぽちゃはいった。
そしたら、ほとんど白波もたたないほど静かな波が浜辺を舐めるようにたいらに押し寄せてきて、それがひいていくとき、裸足で立ってる砂がグーッと深くえぐられて、おもいっきりよろけた。
きゃー、って、あわてて体勢ととのえたらまた舐めるようなたいらな波が押し寄せて、それがひいていくときにまた足の裏の砂がえぐられて、こんどはおもいっきり波の中で尻もち。
もちろん服は着たままだから、デニムがずぶ濡れ。

尻もちついたままでまた押し寄せてきた波の「引き」で、お尻ごとずりずり海にひっぱられそうになった。
遠浅の海岸だから、波は遠くからぜんぜん高くならず、ずーっと浜辺を舐めるような低さでしかないのに、波打ち際のなにもかも海に持ち帰るような強引な引きの強さにびっくりした。

まえにも裸足でぽちゃぽちゃはいったことはあるけど、こんなふうに尻もちつくことなんてなかったのにー、っておもったけど、車に戻って調べたらちょうど干潮MAXに近い時間だった。
引き潮ってこわいー。

いっしょに行ったスプリさんも波にひっぱられて服がずぶ濡れ。
ふたりでぎゃーぎゃー言いながら砂浜になんとか逃げて、それから「これどうするのー」って濡れた服に途方に暮れて、車に積んでたタオルで拭けるだけ拭いて、シートにタオル敷いて座って、いちばん近くのコンビニに行って、着替えを買った。
わたしはじぶん着替えは一式、いつも車に積んでるから、スプリさんの着替えを購入。
海辺のコンビニには水着だけじゃなくて、ショーパンとかTシャツとか着替えも売ってるわけがわかったよねー。

コンビニのトイレは、砂を洗い流したり着替えは禁止、って書いてあるから、車の中で着替えた。
夜中だから、ほかにだれもいなかったし。
でも、店員さんが不自然なびしょ濡れのわたしたちに「海にはいったんですかー?」って聞いてきて、「はいるつもりじゃなかったんだけど波にひきずられて転んじゃって」って言ったら、駐車場の水道をつかわせてくれた。(ありがとうございます)

そこの店員のおにーさんに、「海水浴場」ってなってるとこはまだ安全だけど、そうじゃないとこの「浜辺」は波の「引き」がものすごい強かったり、浜辺からすぐのとこにつよい潮の流れがあったりするから、昼間でもはいったらヤバイですよ、って言われた。
(わたしたちが転んだのは、夜間遊泳禁止とはべつに書かれてなかった「海水浴場」の浜辺だったけど)

イナカのほうのコンビニは、夜、入り口の外側のとこにだいたい扇風機があるのね。
それはなぜか知ってるー?
理由はねー。
「虫除け」です。

真夏の夜はドアが開閉するたびに、いろーんな虫が店内にはいりこんでくる。
セミとかおおきい虫にはあんまり効果ないけど、羽虫みたいなちいさい虫(周りに緑がおおいイナカだと、こういうのが大量に侵入してくるのです)は扇風機の風でわりと防げる。
わたしの家も、網戸の目よりちいさい虫がいろいろ入り込んでくるのに閉口して、「風で吹き飛ばしてやるー」って、網戸に向けて扇風機をまわしたら、そういうちっちゃい虫の侵入がなくなった。

久し振りに夜中の房総半島ドライブもした。
そしたら、はじめて「キョン」を見たー。

キョン 房総で大繁殖14年で50倍5万頭 農業被害拡大


わたしが走りまわったのは、まさにこの記事にある「君津」「鴨川」「勝浦」「大多喜」。

以前はここらへんで奈良で見かけるようなおっきな鹿の飛び出しに遭ったけど。
このまえは、小型犬みたいなのがいきなり車の目の前を横切って、びっくりしてブレーキ。
(動物の飛び出しがこわいから、わたしはイナカの夜道はぜったい飛ばさない)

そしたら、それは右から左の山のほうに駆けてったんだけど、車の窓開けてたから、外の「音」がよく聞こえて。
左側の斜面がものすごい「ガサガサ」草の音がするから、一匹入り込んだぐらいの音じゃないよねー、ってなにげに左側を見たら、ちいさい「眼」の灯りが草むら中に光ってるの。
まるで蛍みたい。
でも、そのちいさい光の動きといっしょに、「なにか」が、そこらの繁みをうごきまわってる音が「そこら中」から聞こえた。
「なんか、たーくさん動き回ってる」っていうかんじの音にギョッとして、よく目をこらしたら。

道路の左側の山の斜面に何匹も、ものすごい数の「小型のシカ」がいて、悲鳴あげそうになった。
これが噂の「キョン」だとすぐにわかったけど、ほんと、こわくなるような数のキョンが、すぐに民家や畑がある場所の山林にいるの。
道を横切ったキョンが出てきたのは、「畑」がひろがってる斜面から。
こんなふうに、夜中は人里まで押し寄せてきてるんだー、って、通りかかっただけのわたしでもすごいこわくなった。

「数匹」っていう程度の数じゃなかった。
「車道」で見かける「野生の動物」としては、尋常じゃない数。

記事にはたくさん「捕獲」してる、って書いてるけど、捕獲したキョンは殺処分されるのかな。
動物園で飼われたり、つかまえて殺されたり。
「動物の命」の価値についてかんがえると、キリがなくウツになる、ね。



いろいろ本も読んでるから、そのことも書きたいのに、あんまりひさしぶりにブログを書くと、とりあえずの近況報告だけで長くなっちゃう。
その「近況」はいつだって代わり映えのないものだから、読む人には退屈なだけだとおもうけど。

ブログに割く時間がどんどん減ってく。
その理由は、ほんとにブログに飽きた、ってわけではないんだけど、やりたいことが多すぎて、そういうものを優先させてしまうから。



あんなにえっちが好きなわたしが、「だれかとえっちする」時間を惜しむようになった。
人とえっちする、って、「えっちしたいなー」っておもったとき、相手と約束して、会ったらすぐにえっちして、終わったらすぐに帰る、っていうわけにはいかないじゃん。
えっち、の前後に社交辞令的なつきあいの時間が必要になる。
お茶したりゴハンしたり。
だいたい、約束するときにメールとか連絡が必要になる。

そういう「えっちをするために必要なえっち以外の時間」を割くのが、なんかさいきんのわたしはものすごいめんどくさくなった。

それだけじゃなくて。
わたしの「他人ギライ」がいろいろと悪化してる。

「ひとりえっち」と「ふたりえっち」のカイカンはぜんぜん違うものだから、「ひとりえっち」でぜーんぶの「えっち欲」を満たせるわけじゃない。
だけど、「ふたりえっち」には、じぶん以外の「だれか」の存在が必須。

さいきんのわたしは、じぶんの「えっち欲」が、その相手の「だれか」とかかわるストレスに勝らなくなってきた。
いちおうは、えっちの相手はだれでもいいわけでもなくて、それなりに「えっちしてもいいなー」っておもえる相手以外とする倒錯めいた性的嗜好はない。
だから、けして「イヤな他人」ではないはずなのに、友情でも性的な欲情でも「好感」を抱く相手とも、わたしはある一定以上の深さでかかわることが、ものすごいストレスになってきた。

ずっと仲よくしてる友だちでも、なんかぜんぜんだれともかかわりたくないきぶんになると、メールが来たり電話が来るだけで、わけわかんないストレスになる。
「ウツ」のせいかもしれないけど、わたしのニンゲン性がどんどん歪んでる気もする。

そんな変化の中で、「ラク」な存在の人もいる。
友だちだったら、アニちゃん、とか。
えっちの相手だったら、スプリさん、とか。

ほかの友だちだって好きだし、アニちゃんにだけこころをひらける、っていうわけでもないんだけど。
なにがどうちがう、っていう理詰めのこたえなんてない。

スプリさんとはもうマンネリみたいなえっちで、すごい刺激、みたいなすごいカイカンをわかちあうわけでもないんだけど。
倦怠期の夫婦みたい、ってときどきおもうぐらいに、わたしとスプリさんはもう慣れ親しみすぎてる。
おたがいに相手を「理解尽くした」錯覚をいだいて、それでいい気がしてる。
ときどき、わたしはマジメな気持ちで、こういうのが恋愛で、こういう恋愛がほんとはしあわせなのかなー、ってかんがえる。
けど。
これは恋愛じゃない気もする。

でも。
わたしは恋愛をしたいわけではないし、恋をするじぶん、に凄まじい嫌悪をいだく体質になったので、なまぬるい関係で、「オトコ」とか「オンナ」とかっていう意識もなくて、なんとなくだらだら繋がってて、嫉妬とか駆け引きとかそういうめんどくさい「恋愛しぐさ」みたいなものも必要がない、っていうのは気楽。
おたがいにケッコン願望もまったくないから、なんとなくつきあうふたりの未来に「ケッコン」を想定されない関係は、わたしには合ってる。

じぶんの中に湧く「恋心」っていうのは、経験で知ってる。
そういう状態のじぶん、っていうのは、あとになってほんとに凄まじい嫌悪でしかない。
だから、わたしは二度とそういう感情を一切、じぶんにいだきたくない。

わたしが恋した人、は、すべて「過去」のものになって、その過去から必死で逃げる方向が「わたしの未来」になってる。

もうじき誕生日が来て、わたしの年齢はひとつあがる。
じぶんが生きてきた年月は、じぶんをコドモからオトナに変化させてきたけど、「オトナ」になることは人生の諸々のナゾが解けていくものでもないんだなー、っておもう。

家族とか友だちとか恋人とか。
人が生きてく人生にはとてもだいじなもの、とされてるそれらの「だいじ」性が、わたしはどんどんわからなくなってく。

社会のシステム上、じぶん以外の「じぶんに親身な他人」の存在は必要なのは理解する。
保証人とか、じぶんの死後の始末をつけてくれる人とか、社会的に迷惑をかけないで生きるには「天涯孤独」では社会的には「エラー」となるシステムに組み込まれて生きてて、そこからそうそう逃げれない。

でも、それはこの社会が必要としてるものであって、じぶん自身はどうなんだろう。
家族も友だちも恋人もいない。
そういう人生に、どうしてわたしは「解放感」をイメージするんだろう。

「孤独」を想像するとき。
たとえば、駐車場に棲みついてるネコたちを見てて。
まいにち、姿を見るたびに、わたしは癒されてるけど。
わたしが見てない時間のネコのことまではわかんない。

ここのところずーっと雨ばっかりで、地面はどこもずっと濡れてて。
乾いたアスファルトをベッドにして、オナカみせて大の字で爆睡してたネコたちは、この雨のあいだ、どこで寝てるんだろう、ってかんがえた。

雨の雫を少しでも避けるために鬱蒼とした草むらの下で丸まってるのかな。
それとも、うまく車の下に乾いた地面を見つけてるのかな。

じぶんをあれだけ和ませてくれたネコのこと、わたしはほとんどなにも知らない。
わたしが一日で見かける僅か数分間しか、ネコのこと、知らない。
ネコは、わたしが「にゃーっ」って言うと「にゃあ」ってこたえてくるし、わたしの車見るとずっとこっち見てるし、わたしが車から降りると「こっちに来るんだろ」ってわかってるかんじでわたしを待ってる。
こんなにも「わたしとネコ」の関係はできてるのに、でも、一日のだいたいの時間、わたしはネコを見かけないし、ネコは人知れずどこかに身を潜めてる。

「孤独」とは、野生の生き物のデフォルトの状態なのかなー、っておもう。
おたがいに存在を気にしない、気配を見せない。
たくさんのさまざまな命が棲みついてる森の中に立っているわたしは、そのどの命ともおたがいに気をつかうこともなく、どこにどんな命がいるのかさっぱりわからないけど、森には確かにわたし以外にたーくさんの「生きてるもの」はいて。
でも、わたしはその生きてるじぶん以外のたーくさんの生き物とどこにどんな繋がりがあるかわからないまま、森に佇む。

べつにそれは不幸でもしあわせでもなく、ただ「そういうものだから」ってことにすぎない。

深くかかわろうとした欲を裏切られるものをいちいち「孤独」と嘆く必要もない、あたりまえの「孤独」をわたしはわかるようになった。
そういう孤独は、自然に馴染める。

他人と距離の近すぎるニンゲン社会のシステムに、どうしてもわたしは合わないんだとおもう。
ケータイに着信のない日がない。
友だちとかプライベートなつながりばかりじゃない。
働いていれば、なにかと仕事で連絡が来る。
仕事だと応答しないわけにはいかない連絡ばかり。
こういう日常を「あたりまえ」とおもえる感覚がわたしの中に欠如してる。

オフをきめこんだ一日。
ベッドでだらだら本を読んでた日中、2件電話が来た。
どちらも仕事上の話。

仕事中なら、仕事の話は真剣に聞く。
でも、じぶんはオフの時間にだらけてるときなら、どんな仕事の話も「そんなのどーだってわたしには関係ない」きぶんになる。
でも、オフが終わってまた仕事をするときにじぶんに必要な話だから、わたしはホンキでは逃げれない。

この時間のじぶんにとってはどうでもいい話をマジメに聞くふりをしながら、なんでこの人は無神経にわたしのオフの時間に侵入してくるんだろう、と腹立たしくもなってくる。

もちろん、相手にはなんにも非はない。
わたしが、じぶんの時間を浸食する他人からもらうお金で生きてる、っていう状態のじぶんにうんざりしてしまうだけ。

ニンゲンはなんで高い知能で、こんなギューギューと窮屈な社会を構築してしまうの?
「愛」よりも「無関心」が平和的につよく生きれる気がする。

ネコよりニンゲンは生物的によわいから、「愛」なんていう絆を必要とするのかもしれないけど。

このところ、ラジオで某詩人の人の話を聞くことがつづいて。
古今東西の「愛の詩」の話題とか出てて。

「愛」にはいろんな詩的表現があるけど。
でもさー。
愛されたい、なんていうのは、「欲望」ってコトバで片づくし。
愛してる、なんていうのは「執着」ってコトバで言い切れるし。

欲と執着に徹して生きてますー、なんていう詩だったら、ぜーんぜん美しくないねー。

晴れてるときはオナカだしてひっくり返って寝るほどに「ヒト」を信頼しながら、でも冷たい雨のときにすり寄ってくるほどの親密さのない、ノラ猫みたいなかんじでニンゲンも生きたらダメなの?








あれ?
これ貼ってなかったっけ?
貼ったつもりでいたのに、過去記事ざっと見たら貼ってなかったみたいけど、見落としですでに貼ってるかもー。
でもいいの。(再確認がめんどくさい)


posted by ぴの at 22:57| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする