2017年01月09日

「ことし」って入力すると「2017年」「平成29年」ってちゃんと出た

金曜ぐらいにブログ書こうとおもったけど。

【誤】リア充すぎてぜんぜんブログが書けなかった。
【正】ぱそこんのまえがいろいろモノで埋まってて座れなかった。

年末進行の勢いついでに1月に書く分の原稿も送っちゃったから、毎日ぱそこんつかわなくてもヘーキ。
っていうかんじだったから、部屋のいろいろな片づけをしてて(渋々はじめた)、ぜんぜん片付かないものはどんどんぱそこんの椅子に積み上げてってた。
そしたら、椅子に座るまでの片づけがタイヘンになったから、座らないまま生きてた。

でも。
【誤】そろそろメールチェックぐらいするかなー、って、椅子の上を片づけた。
【正】何日もメールチェックしないのがだんだんやばくなってきたから、しょうがないので、椅子の上のモノをぽんぽんほかの場所に移した。

いま、「ぱそこんのまえ」は、きれい。



ゲストトーク的なラジオ番組では、だいたいゲストに「ことしの抱負」みたいなのを尋ねてて、そのこたえをいろいろ聞いた。

ことしのわたしは、やるべきことをあとまわしにしない、っていうのをかんがえたけど。
しょっぱなから、お正月休み中にやるつもりの片づけを「あとまわし」にしたから、三日坊主にもならなかった。
去年、スケジュールを書く手帳とはべつに、やるべきことをいろいろ並べて書けるようにTo Do List用のちいさな手帳も買った。

おととしの暮れぐらいに、有能な人はTo Do Listなんてつかわない、っていう記事をブログで取り上げたら、わたしがときどきお話する超一流な仕事をしてる超有能な方が、じぶんもつかわない、っおしえてくれた。
ぜんぶカレンダーに書く、って。

やっぱりそうなんだー、って、仕事ができる人の仕事の仕方って、いろいろ知るのがたのしい。

それで、To Do Listについて「来年」ブログに書こうかな、ってわたしは返して。

その会話したのが2015年の暮れだから、そのときの「来年」は2016年。
わたしは2016年中に、とうとうTo Do Listについてのことはブログに書かないままだった。

本の感想とかも、「あとでブログに書く」っていう書く書く詐欺をたーくさん繰りかえした年だったよねー、去年は。

わたしはぜんぜん有能な成功者にはなる気配もないので、いまもTo Do Listの必要性をかんじる。

まず、ことしのわたしが「手帳」に望んだ機能は。
スケジュールを書く手帳のカレンダーは月間で充分。
月間タイプの1日のコマの中に「予定」と「実際にやったこと」を色分けして書く。

スケジュールページのうしろには、ただの罫線のページが20ページぐらいほしくて。
この罫線のページをまず1か月1ページで12か月分インデックスつけて、ここには雑にお金の出し入れを書く。
これはあとでちゃんと「帳簿」に整理して書いたりするメモ代わり。
あとのページは、「税金」とか「車」とか「医療」とか項目に分けて、その年いちねんの記録をつけておく。

とりあえず持ち歩く手帳ひとつで、じぶんのことしの記録、は雑にぜんぶ書きこめるようにしておく。
そしたら、出先で時間潰す必要ができたときとかに、手帳にいろいろ書けるから。

デザインは、ビニールのカバーがついてるタイプのもの、がぜったい。
表紙の内側のカバーのとこに、いろいろ紙を挟みこんだりする。
ずっとまえにつかった手帳に、薄いアドレス帳がついてたから、それに「ケータイのアドレス登録が読み取れない場合に必要な連絡先」をテキトーに書きだして、毎年あたらしい手帳に挟みこんでつかいまわしてる。

To Do Listの手帳も月間タイプ。
これは、欄外に「その月にやらなくちゃいけないこと」をずらずら並べて書いて。
1日ごとのコマには、その日にやるべきことを書く。

スケジュールの手帳にはほんとにだいじな予定を書くけど、こっちのリストの手帳に書くのは日常のこまかい予定。
あしたはなんのゴミをまとめて捨てる、とか。
スケジュール帳のほうには「買い物・ドラッグストア」とか書くだけで、リストの手帳には、なにをどこで買う、とか、買い物にまわる順番を書いたり。
レンタルDVDを返す、とか、記念切手を買っておく、とか、洗車する、とか。

メモで済む内容だけど、メモだとそのメモの紙片をどこにいれたかすぐにわすれちゃうし、それをみるのもわすれちゃうあたまなので、手帳にまとめた、っていうかんじでリストつくってる。

時間単位のスケジュールはわたしには不要。
こまかく時間をきめちゃうと、ひとつでもその通りにならなくなったとき、わたしのあたまには混乱が生じるから、「やること」と「やる流れ」を雑に決めて、あとはそのときのじぶんのあたまの速度に任せたほうが精神的にラク。

手帳類にデジタルをつかわないのは、電源がないとまったくつかえない、っていうことに、ものすごい不便さをかんじてるから。
それをかんじないでつかいこなせてる人たちのほうがおおいのもわかってるけど、わたしは、インターネットとかケータイの機能とか、「それがなくてもなんとかなる」暮らし方してるねー。
書くお仕事だって、いざとなれば原稿用紙に書いて郵送すればいいんだし。

基本「びんぼー」だから、お金のかかるもの、に、じぶんの日常のだいじなものをすべて依存する勇気がない。
ケータイがこわれたとき、すぐに修理出せないかもしれないし、ぱそこんもすぐに買いかえれないかもしれないし、それでもこまらない心掛けで生きてる。

いろんなものが、いざ、それがなくなっちゃっても、なんとかなる、ってレベルを維持して生きてると、お金がないときの恐怖は薄れるし、ものすごい切りつめた超絶びんぼー暮らしするしかなくなっても「不便さ」をかんじるのが少なくて済む。

稼ぐ能力が著しく低い人(わたし)は、お金がちょっとあるときでも、「ものすごい最低限の生活レベルでも気楽に暮らしていける感覚」を手放さないのが、ストレスの少ない生き方のコツ。

To Do Listから話が逸れてる。



ことしの抱負みたいなもの。

やたら愛想をふりまくのは、やめようとおもう。
対人関係で、じぶんの印象をよくする基本は「笑顔」っておもってたけど。
「印象をよくする」ことの必要性をかんじなくなった。

不愛想で、とっつきにくくて、人づきあいがまともにできない。
っていう印象をまわりに持たれることに、ためらわない。
わたしの本質は、そう、なんだから。
ムリして、愛想がよくて、フレンドリーで、(愛想とフレンドリーっておなじ意味?)、人づきあいが常識的、みたいなふりは一切やめちゃう。

それでこうむる不利益は、かんがえたらわたしの場合、たいしたことないし、「いい人」のふりして得る利益、なんて惜しむほどでもない。

書くお仕事関係で知り合ったある30代の女の人は、ふだんぜんぜん愛想がない。
人ギライというより男ギライなので、男性にはとくに滅多に笑顔をみせないし、話すときは口調が凄まじく冷淡。
同性にもぜんぜんフレンドリーじゃない。
よほど親しい人とは、笑顔で話してたりするのを見るけど、そんなのはごく僅かな人にだけで、だいたいは笑顔はかんぜんにない冷めた口調で会話する。
挨拶はきちんとしてるけど、必要以上の雑談に沸かないし、社交辞令も一切言わない。

でもね。
この人、だれからも嫌われてないの。
初対面だと男だけじゃなくて同性に対してもものすごい冷淡な口調で話すから、さいしょはとまどうけど。

でも、その人を知る「みんな」は、「あの人はクールだからねー」って「個性」として好意的にとらえてる。

わたし、その人と会うたびに、その人のムダに愛想をふりむかない基本冷淡な対応に憧れちゃって、わたしもこうなりたい、っておもうようになった。

「不愛想にしててもきらわれない人」になりたいわけじゃない。
「不愛想な人(じぶんにフレンドリーではない人)にいちいち反発する態度に出る人」のおおい人間関係にじぶんを置かないようにしよう、とおもう。

だから、無闇に愛想をふりまかなくても済む範囲、で生きる。



年末年始は、新年の抱負だけじゃなくて、去年のできごと、をいろいろ思い返す時期だけど。

去年、わたしにとってひとつの節目にもなったことがある。

プライベートでもいろいろあったけど、ネット上、で、ひとつ。

去年のある日とつぜんわたしは、ナントカ上のカノジョ(ちゃんと書かないのは検索除け)、っていうのを解任されてるのに気づいた。
これは、あるときとつぜん、わたしになんのひとこともなく、そういうものに任命されたもの。
それから、そういう関係、がネット上でつづいて、でも、終わる時もわたしにはなんのひとこともなく、わたしも気づいてない「いつのまに」、切られてた。
いつまでもそのままだとはおもってなかったけど、終わる時も、それを知らされなくて、しばらくはわたしだけその遊びの固定ツイートを出したままの恥ずかしいかんじになってた。

とても親密な関係性の名称だったけど、それをはじめた相手にとって、「わたし」というリアルな人格はまったく必要じゃなかったみたい。
ネット上の「わたし」の人格すら必要じゃなくて、わたしのIDだけがその遊びのアイテムだった、というだけ。

だから、わたしの意思はまったく関係なく、その遊びはスタートして、終わって。
この遊びに「わたし本人」はほんとになにもかも「無関係」だったことを、さいごにやっと理解した。
いっしょに遊んでたつもりだったから、じぶんがものすごい恥ずかしかった。

さいしょにやってたブログのIDがとつぜんある日、たくさんの人たちに注目されるようになって、友好的非友好的、いろんな「人からの関心」を寄せられるようになった。
有名税というコトバをつかうにはおこがましいかもしれないけど、わたしは、有名税ってこういうかんじのものなのかなー、とかんじてた。

わたしの人格とか意思とかは関係ないとこで、わたしのIDがいろいろ取り沙汰される。
わたしというニンゲンと繋がるわけではなくて、IDと繋がろうとする人たちもいる。
なんどもなんどもブログの記事にわたしのIDを混ぜ込んでる「わたしの知らないブロガー」もいた。
あの頃、わたしのID入れると、アクセスが増えたんだって。(そこにはそう書かかれてた)
わたしのIDは、そういう「一過性」のヘンな力をもった時期がたしかにあったとおもう。

わたし自身はそれがイヤだったから、そのIDから逃げて、どんどんID変えて、ひたすらひっそりネットに棲息してる。

わたしにも、ネットで親しくなりたい人、はいた。
そういう人たちとの出会いもあった。
憧れた人、もいる。

ナントカの関係の遊びの相手も、わたしには「どこかのブロガー」ではなくて、「好きなブロガー」だった。
「大」がつくぐらい。
大好きなブロガーさん、だった。
だから、とつぜんそんな遊びの相手に任命されて、わたしはうれしくて、いっしょに遊んでたつもりだった。

でも、その遊びが終わった時、わたしという個人はその遊びにはなんにも必要がなかったのだと、思い知った。

はてなで、わたしのあのIDの当時の勢いを知る人はもうほとんどいないとおもう。
いまのわたしは、ネット上のどこでもほかの人たちの話題にはならない。
わたしもいまのはてなの人たち、いろいろ知らない人ばかりになってる。

そういう「人からぜんぜん関心を持たれない」位置に、いま、じぶんはいる。
去年、ナントカの遊びが終わった時点で、そういう目立った時期の名残がすべて消滅した。

これからはもう、わたしのIDはどんな人にも価値のないものとなって、わたしはなんにも傷つかずに済む。
わたしはこれからの人生、どんな場所でも、なにをしていても、もう二度と、目立つことはしたくない。

わたしを直接知る「ちょっとの人」たちとのちいさい係わりの中で、そっと無価値な棲息をつづけるだけ。
人にとって無価値でいることは、他人から自由でいれる。

ネット上で無価値でいる、というのは、じぶんをなんにも傷めない。
あの頃のじぶんに寄せられたいろんな関心は、なにもかもわたしには分不相応すぎた。



ブクログをぜんぜんちゃんと記録してない。
ことしはちゃんと記録したい。(これも抱負)

お正月読書。

夢を与える (河出文庫) -
夢を与える (河出文庫) -


ローズマリーの赤ちゃん (ハヤカワ文庫 NV 6) -
ローズマリーの赤ちゃん (ハヤカワ文庫 NV 6) -

これ読んだ。
あとでブログに書く。(2017年初書く書く詐欺)



 ss170109a.png




posted by ぴの at 15:23| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする