2017年01月10日

寝るまえのたわごと

「愛」に飢えてる人はおおいなー、っておもう。

その「おおさ」の根拠はない。
ただのわたしの感覚。

人をすぐに愛し、人から愛されたがる。
そんな感覚をフツーにいだいてる人のほうが、「じぶんの出会う他人」にはおおい。

恋人がいない人は、恋人をもちたい願望があったり。
恋をすることに、たのしさをかんじたり。

人はひとりでは生きていけない、と、そんなコトバは少しもネガティヴなものではなくて、反対にポジティヴな希望、みたいに吐かれる。

飢える、というコトバはあまりイメージよくないね。
欲する、というコトバのほうがいいかな。

なんてかんがえるけど、どんなコトバをつかうかなんて、関係なくて。

愛を必要とする人。
親の愛。
友だちの愛。
恋人の愛。

愛を必要とする、のは、愛されたい、に等しい。
愛するだけでは、さみしい。

そういう感覚がわたしにはわからないから、わたしは人を愛することができないんだとおもう。

愛されたいという願いもない。
かけらも。

恋愛映画や恋愛小説をいろいろ見たり読んだりする。
いろいろ感情を移入したりするけど、でも、ときどき、そういう「恋愛」ジャンルのものを受けつけなくなる。

ケーキみたい。
たまに食べたくなるけど、ぜんぜん食べたくないときがだいたいで、食べたいときでもたくさんは食べれない。
あまいものは、「ときどき」「ほんの少し」しかじぶんのカラダが受けつけない。

ときどき人の恋愛の物語を見て、恋愛のあまったるい雰囲気をたのしむけど、それに浸りきれない。
とくに恋のあまさには、わたし自身、少しも飢えがないから、じぶんがそうなりたい妄想もたのしめない。

友情とか家族愛のおかげで人生がはっぴーになる、なんていう物語は、じぶんの世界とはまるで関係ない宇宙戦争のSFとおなじ。
じぶんはひとりじゃないんだ、ってしあわせになる主人公は、わたしにとっては、エイリアンとの戦いでギリギリ生き延びれた主人公の安堵みたいなもので、なにかめんどくさい物語を覗いてしまった疲労感もある。

手をつないでるカップルをいろいろよく見かける。
好きな人と手をつなぐ。
その幸福感が、わたしにはピンとこない。

あるくときはだれのカラダにも触れないであるいていたいし、ベタベタしてしまうときは、そのときだけの「刹那」の接触でいいし。

恋人と暮らしてる小説をときどき読む。
どうしてそんな暮らしに息が詰まんないんだろ、って、わたしはいつもフシギになる。

まいにち、だれかがいるベッドで寝起きなんてしたくない。
わたしにはできない。
たまに、えっちするときだけ、とか、そんな暫定的なものだから、おなじベッドにはいることはできるけど。
それが日常になる、なんて、わたしにはムリ。

人を好きになる、っていうのは、その人と日常の舞台をおなじくすることに、なんの苦もなくなること、なのかな。
わたしの家の玄関の中には、わたしはだれにも入ってきてほしくない。
玄関の中に引き入れることができるようになったら、わたしはその人に「恋してる」ってことになるのかな。

恋、みたいなのはいままでもしたことはあるけど。
でも、そのどの人も、わたしはじぶんの部屋にいれたい、とおもったことはなかった。

人を好きになっても。
その人からも、わたしの部屋、は守りたい。

人を愛する、というのは、こころの中に他人を招待すること。
他人の中にも、じぶんがはいりこみたい、ってこと。

そういうことが、じぶんの「願望」とはならない。
だから、わたしは、人を愛さないし、人から愛されたいとも願わない。

恋する必要をかんじない人、と、知り合ってみたいとおもう。
人に恋する人、に、飽きてしまったのかもしれない。



posted by ぴの at 02:57| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする