2017年01月27日

じぶんをラクにする

ブログやツイッターからぜんぜん離れてる日が数日つづいても、ぜんぜんヘーキになった。
もうこのアカウント、わたしにはいらないのかなー、なんておもうけど。

ここがなければ、じぶんのあたまのなかにあるものを出す場所がぜんぜんないから、これからもここは必要なんだとおもう。

じぶんの病気のことはとくに友だちにもちゃんと話してないから。
去年のうちに行かなくちゃいけなかった「通院の日」を先延ばしにして、ことしになって行ってきた。
そしたら、やっぱり、きぶんがものすごい落ち込むことになった。

着実に進行してて、それを遅くさせるために通院はさぼっちゃダメ、って怒られて。
さぼるとどんなことになるか、具体的にいろいろ言われて、もういますぐおしまいでいいです、っていうきぶんになって帰ってきた。

ツイッターでいま、書いたばかりだけど。
書くお仕事で知り合った親世代の人が、癌の疑いあり、って言われて、その検査をこんどいろいろすることになったんだって。
それでもし、わるい結果が出たら、治療はなにもしない選択とるつもり、って言ってた。
独身だから、扶養してる身内のために長生きしなくちゃ、っていう義務はまったくないから、って。

ものすごい自然なかんじで「治療はしない」って言ってたのが、わたしには衝撃があった。
そういう選択を選ぶ身内がわたしにもいたから、その選択が少しも悲痛の果てのものじゃない、っていうのもわかってきてる。

他人の口からもそんな選択を聞くと、「そっか、ビョーキから解放されていいんだ」っていう衝撃があったの。
ビョーキに振り回されない。
苦痛を緩和する治療だけ受けて、ムリに治して寿命を延ばそうとあらがわない。

お母さんがそんな選択をして、じぶんの尊厳をぜんぜん損なうことなく、穏やかに死んでいけたのを見たから。
わたしも、いつか将来、そういうときがくるなら、そうしたい。

ただ。
わたしのビョーキは、いろいろ癌とは進行の仕方がちがう。
途中で、死んだほうがぜんぜんマシ、っていう、じぶんには耐えれそうもない苦痛な時期が来る。
わたしは、そのときがじぶんのおしまいの時期にしようとおもってる。
そう決めてる。
それが何年先かわかんないけど。

そのときまでは病院通いをつづけるつもりだけど、精神的にきつさをかんじるたびに、それを越えなくちゃいけない理由が独身のわたしにはない気がして。

なぜ、人は生きるんだろう。
ってことを、よくかんがえる。

人生なんてぜんぜんたのしくないのに。
わたしには、そう。
会いたい人には二度と会えなくて、いだいた夢はムリヤリ諦めをつけて、かかわりたくない人たちとの縁はカンタンには切れず、できればはたらきたくないけど生活費のためにはたらくまいにち。

さいきん、わたしのなかに「むなしさ」が漂う。
いろんなことに。
なにをやっても、むなしい。

むなしさは、見返りを欲しがることの裏返しなのかも。
無自覚にでも。
ってことも、かんがえた。
だから、むなしさをかんじるっていうのは、じぶんにそんなつまらない欲望があるせいだ、ってじぶんを責める。

だけど。
そうやって、じぶんをただそうとして。
そんなことまでして、じぶんをきれいにする必要なんてあるのかな。
そんなことも、かんがえる。

むなしい。
ってかんじた、その感情を、じぶんが汚いもののように否定しちゃったら、わたしがわたしでいる理由がなくなる。
わたしが。むなしさをかんじた。
それは、わたしの感情。
わたしがどんなにただしくないニンゲンだとしても、いまのじぶんが、そうかんじた。

いろんなことを、じぶんでがんばる。
仕事の手は抜かなかったり。
それでも、そういうじぶんを律した結果に、むなしさに襲われてしまう場合。
それは、じぶんの未熟さを責めることがただしいの?
じぶんがむなしさをかんじてしまったのは、不可抗力。
そうひらき直りたい。

人が衝動的に殺人をおかしてしまうきもちがわかる。

そういう衝動がときどき、じぶんに湧くようになった。
特定のだれかを殺してしまいたい、っていう、矛先がはっきりしたものではなくて。
無差別殺人みたいに、街中を「わーっ」って刃物振りまわしながら駆け抜けたい衝動。
その刃物がだれかをひっかけてしまっても、そんなことお構いなしに。

でも、わたしには人は殺せない。
だから、その衝動はすぐ、じぶんに向かう。

死ねばいいのに。
っていうコトバは、じぶんは口にしないつもりで生きてきた。
でもね、このコトバ。
いちど吐いてしまうと、ものすごいきもちいいの。
ものすごいカタルシス。

ただし。
わたしはそのコトバを、じぶんに向ける。
「シネバイイノニ」
じぶんに言う。声にして。
シネバイイノニ。
シネバイイノニ。
shinebaiinoni.

精神がこわれてしまってるお父さんのお母さんから、死ね死ね死ね死ね言われたときより、じぶんに「シネバイイノニ」と吐くことは、それがだれの望みでもあるような気がする。

むなしさをかんじたあとは、じぶんに向かって、シネバイイノニ、とつぶやく。

なぜ、人は生きるの?

なぜ、人は生きようとするの?

わたしの書くものは、愛に溢れてる、って反応をもらう。
その媒体でとるアンケートで。

世界観、好きです。
ぜったい愛がある。だから好き。
こういう愛の描き方があったんだ。

そんなアンケートの回答を転送してもらう。

愛なんていらないじぶんが、愛を描く。
詐欺師のつもりはなくて。

愛はある。ちゃんと。この世界に。

ただ、それは、わたしのものではないし、わたしがそれをほしいわけではない。

わたし自身とはぜんぜん関係ないものだけど、たしかに、愛っていうものは、在る。

在るものを、わたしはただ描く。

そういう創作は、じぶんの生身の感情をダイレクトに反映させるわけではないから、ものすごいラク。

わたしは、じぶんが書くものには、かならず、「書いた文章は先につづく」ことを想定してる。
いちばんさいごの「。」を打ったとこで、書いたものがおしまい、なわけではなくて。
その先にも、ずーっと、それはつづく。

その「先」に、わたしは意識的に「希望」を置く。
じぶんは厭世観むんむんな性質なのに。

そんなじぶんに憐憫があるわけではないけど。
わたしは、じぶん以外の人には、だれも、しあわせでいてほしい、っていう、無責任な感覚がある。
だからわたしは、日常のなにげない、だれもたいして記憶もしないようなささやかなことが、その人のしあわせの基盤になるような物語を創るのが好き。

じぶんはまいにち、わけのわからないむなしさに襲われながら。
だれかのしあわせを無責任に思い描く。
それで、じぶんがたのしく生きれない罪悪感を打ち消してるのかもしれない。

たのしく生きる必要もないと、わたしはおもっているけど。
どこかで、人生をすこしもたのしめないことに、やましさかんじる。

お母さんに。

このまえ、ものすごい潮がひいてた漁港で、ものすごい潮が満ちてる状態のときをみた。
びっくりするぐらい、「海」が陸に迫ってた。

わたしは、そんな自然の光景をみると、しあわせをかんじる。
生きてると、こんなもん見れてすごいなー、っていう、しあわせ。
その、かんじた「しあわせ」の感覚を、物語上のキャラクターにおとしこむ。

生きててすこしもたのしくないけど、そんな人生でも、しあわせをかんじるものはある。
いろいろ「たのしい」という感情を、じぶんでだいじに持とうともする。
それをひとつひとつ、じぶんでクリップして、「しあわせ」や「たのしい」感覚を「体感」にかえる。

体感は、料理でいえば、出汁。
その出汁で、いろんな食材といろんな調味料をあわせて、いろんな調理法で創作の物語をつくる。

わたし以外の人は、すべて。
しあわせに生きて。

そうおもうことが、ウツでダメになっていくじぶんのダメさをごまかすことにもなってる。

世界中がしあわせで溢れてたなら、じぶんがどうダメになってっても、だれも気づかないから。

どんなむなしさをかんじても、人のしあわせな姿をみれば、むなしさにあらがう気持ちなどなくなって、わたしはラクになる。
諦めて、ラクになる。

わたしだけ、この世でいちばんわるいのだ、とおもうと、わたしはものすごいラクになる。

だれかのせいではない、という感覚だけが、じぶんをラクにさせてくれる。



posted by ぴの at 18:39| オーランド ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする