2017年02月20日

月光が落ちてこない夜

集中して書きたい仕事があったから、ぜんぜん文体がちがうブログとか書くのはキケンな気がして、遊びのネットはかんぜんに断ってた。

じぶんがこういう仕事をするようになると、「できあがった作品」より、それを創り上げるまでの「メイキング」のほうに興味が湧く。
同業の人たちといろいろ仲よくしてもらって、いろいろ飲んだりするけど。
意外に、じぶんが手掛けた仕事のメイキング話、ってしないんだよねー。
「全体公開」的なエピソードはいろいろ聞いたりするけど。
そこでは語ってもらえないぶぶんの創作秘話、みたいなの。
企業秘密、ってことなのかな?

この人がなんでこの仕事を、ってとこを知りたくても、どうしてその仕事をゲットしたか、って、案外「ほんとの話」はしてもらえない。
仕事のグチとか、プライベートなこととか、そういうのはお互いに突っ込んだ話ができるようになったとしても、「ここはだれにも公開しない」っていう鍵の領域を、だれもみんな持ってる。

おなじ書くお仕事をする人たちといろいろ知りあって、ものすごい好きになる人、っていうのが何人かいる。
ほとんどはわたしより年上の女性なんだけど、セクハラ的なことをまったくしてこない年上男性の人もいる。

そういう「好きな人たち」と集まって、たのしい時間をわいわい過ごすと。
この仕事をしてよかったなー、っておもう。

でも。
わたしがこの仕事を辞めたら、わたしはもうここに混ぜてもらえないんだ、ともおもう。
そんなこと関係なく個人的につきあってくれる人もいるかもしれないけど、少なくとも「同業の仲間同士の集まり」にはもう呼ばれない。

仕事をしてるから、声がかかる。
仕事をしてるから、知らない人からも話しかけられる。
仕事をしてるから、初対面でもすぐにわいわい盛り上がれる。

仕事の繋がり、って、その仕事をしてる、ってことが基盤だから、繋がっているあいだはとても頼もしくてありがたいものだけど、その世界からじぶんが離脱してしまった瞬間、消えてしまう世界だなー、っておもう。
そんな儚く脆い世界を、なぜ人は必要としたり、それをだいじにしてしまうんだろう。

脆いものだからだいじにする、っていうかんがえもあるけれど。
じぶんが「なにもの」っていう属性を変えた途端に断ち切れてしまう世界に、じぶんが生涯つきあおうとする必要はない。

こちらも、じぶんが「ちがう場所」に拠点を移すたびに、世界を変える。
それぐらいの割り切りが、じぶんを自由にする。

なにがあっても繋がっていれる人、というのは、わたしでも何人かは思いつく。
だけど、それは「属性」がちがうぐらいでは断ち切れない、という絆ではあるけれど、わたし自身が変わってしまったら、そこにはなんの保障もない。

わたしが読んでるあるブログの人は、躁鬱をかかえてるらしくて、躁転したときに人が離れていくことを書いてた。
わたしが身近のだれにもじぶんがウツなのを話さないのも、メンタルの問題は他人にはシェアしきれない重さがあるとおもうから。

メンタルなものに限らないね。
わたしのやっかいな病気のことも、人に打ち明けたところで、人は困惑しちゃうとおもうから。
優しい人ほど、こころを痛めてくれるとおもうから。

わたしは人前ではなるべく理性的にふるまって、ヒステリーも起こさないし、愛想はよくなくても不機嫌にはならないし、人に迷惑かけないような思考を捨てきれない。
だから、「離れていかない人」はまだいる。
「まだ」というだけ。

わたしが「人が変わったように」変わってしまったら、いま離れていかない人たちだって離れてしまうとおもう。

孤独を味方にする、っていうのは、「離れてしまう人」にいちいち執着しなくて済む、ということ。
いつかわたし、この輪にいれなくなるときがくるかもしれない、ってかんじるとき。
その輪にいるあいだは、たのしい時間のシェアを「たのしい」とかんじるし、それと同時に、「それがなくなっても構わない」という冷めたじぶんも育ってる。

書くお仕事をしてると、依頼がきたとき、それを引きうけることで、ある種の世界へのパスポートを更新するきぶんになる。
いつか、「もう書くお仕事はいいや」っておもったとき、わたしのそのパスポートは効力を失う。
わたしにはアクセスできない世界ができる。
そこに、それまではじぶんがどれだけ気侭に存在できたとしても。



宇多田ヒカルさんの『letters』って曲を、このまえ、どこかでなんとなく耳にした。
お母さんがもってたCDにも入ってたから、この曲は知ってる。
いい曲だなー、って、なんとなく、わたしはおもってた。

このまえ、ひさしぶりにこの曲を耳にしたときは、いろいろ歌詞についてかんがえた。

「キミ」はいつも置手紙を置いてふらっと放浪してしまう旅人みたいな人。
そういう「キミ」を待つ恋愛に疲れて、「ひとりでもだいじょうぶ」っていう確信はまだ持てないけど、「キミ」をもう待つ暮らしはやめることにした。
そういう、これも失恋、の歌。

わたしはそうおもったから。
「キミ」はそんなふうに気侭に生きてても、必ず帰るって言えば置き去りにした恋人に安心を与えてるとおもって、そんなじぶんを待ってて「おかえり」って言ってくれる恋人の存在を疑わない子どもじみた人、っておもった。
そういう恋愛は、片方だけがオトナにならなくちゃつづけれないから、オトナ役を押し付けられたほうは疲れるねー、って。

そんな「キミ」から離れる決意がついてよかったねー、って。

でも。

この歌、恋愛ソングじゃなくて、お母さんのこと歌ってるんだよ、って、人から聞いた。

その真偽はほんとのところはわかんないけど、宇多田ヒカルさんの親子の話は芸能ニュースみたいなのでなんとなく入ってくる情報もいろいろあったから、「そーだったんだー」って、そのまま納得しちゃって。

それから、これが入ってるCD探し出して、これは「彼女のお母さんの歌」っておもいながらなんどか聞いた。

そうすると、なんかじぶんの感情がいろいろリンクした。
それで、涙がぽろぽろ出た。

わたしのお母さんは、お父さんがわたしたち子どもを捨てたあとでも、ずっと子どものそばで生きてた。
だけど、お母さんのこころまでが、わたしのそばにいたのは幻想だった、ってわかった出来事があって。
弟のそばにはお母さんのこころはずっとあったけど、わたしからはお母さんのこころはとっくに離れてた。

それを知ってから、わたしもお母さんから離れることにした。
こころを、お母さんから離そうとして、わたしにはもうお母さんは必要ない、ってことにじぶんの軌道修正をした。

わたしも、「ひとりでもだいじょうぶ」なじぶんにしてった。

それなのに、お母さんは治らない病気になって、わたしはまたお母さんの娘、に戻った。
最期の数か月は、お母さんとわたし、いい関係だったとおもう。
それで、お母さんは息をひきとる瞬間、わたしと手を繋いでて、最期にぎゅっとその手、つよく握って、その力がふっとほどけて、それで死んだ。

お母さんの最期に、お母さんの死を見届けたのは、弟じゃなくてわたし、だった。

ずるい、とおもう。
こういう運命に。

わたしはお母さんから離れることができなかった。
わたしは傷ついたはずだったのに、その傷をさいごまで、親に「わたし、傷ついたよ!親のせいだよ!」なんて言えない子どもの役をやめれなかった。
お母さんを失ったあとのお父さんの壊れ方みてると「なんでいまさら。生きてるあいだのお母さんをぜんぜんしあわせにしなかったくせに」って死ぬほどなじりたい。
でも、そういうことをすると、お父さんが傷つくから、わたしは言えない。

わたしは「お父さん、いまさら、お父さん面して、わたしたちとかなしみを共有しないでよ!」って言いたいけど、そんなことはたぶん、死ぬまでぜったい言えない。

わたしは親から離れて、「遠くにいるけど、親のしあわせは願っているからね」っていう子どもになりたかった。
そういうきれいな子どもにも、わたしはなれなかった。

お母さんが死んで、ほんとにかなしくて、さみしくて。
なんで、じぶんがさみしがってるのか、じぶんがわかんない。
わたしがお母さんを失ったのは、もっとそのまえだったはず。
わたしはとても傷ついて、そのじぶんを必死で立て直した。

なんで、そのじぶんが、またお母さんを失って、メソメソ泣いてるの?
なんで、こんなにわけわかんない喪失感に襲われて、その喪失に怯えて、じぶんのこころからなにもかも元気を消失させちゃってるの?

お父さん、お母さん、わたしを愛したふりをしないで。
愛してなかったなら、死ぬまでそういう態度をちゃんと貫いて。
親の義務と愛をごっちゃにして、それをわたしに「親の愛」に見せかけないで。

そういう、地団駄踏みながら泣きわめきたかったじぶんの小児的な衝動も、もう爆発する火口を塞がれて、死火山みたいに沈黙する。

わたしはどんな手紙もいらない。
だれから、も。

どんなきれいなコトバが書かれていても。
それが愛のコトバにみえても。
そういうものを書き連ねたものを、わたしを傷つけないように、なんていうこころでパッケージして、わたしに受け取らせて、わたしにそれをありがたがらせる。
そして、わたしをだいじに扱ったつもりになって、わたしから離れる。
そんな手紙は、生涯、だれからももらいたくない。



月のある夜は、海がキラキラ光る。
そういう光景をなんども見たから、わたしは、月光ってぜったい暗い海にキラキラした光の破片を落とすものなんだとおもってた。

でも、そうじゃないことを知って、ちょっと衝撃だった。

このまえの満月の晩。
あんなにまんまるのおおきな月が夜空の真上にぷかぷか浮かんでるのに、その真下に広がる海は一辺の光も落ちてなくて真っ暗だった。

あのまんまるなお月さまはどこを照らしてるの?
海は真上に満月が出てるのを気づいてないみたいに、目をこらさないとそこに海があるのもわかんないぐらいの真っ暗。

どうして?
って、すごいナゾ。

いつもただの真っ暗な闇がひろがってるようにしかおもえなかった崖の下が、月灯りでものすごい岩場の海になってるのをはっきり見たこともある。
月光、ってすごい、っておもったのに。

月灯りで夜でも影ができることも、わたしは知ってる。

それなのに、あの晩はなんで、海が少しもキラキラ光ってなかったんだろ。
真上の満月の月灯りが、地上のどこにも反映されてないかんじ。

だれか科学的に説明してー、って、ホンキでおもった。

なぜ、満月が海面を照らす月夜とぜんぜん照らさない月夜があるの?

その夜の地表は、月光をぜんぶ吸いとっちゃう闇に襲われてた。
いつもの夜の闇と区別がつかない人たちにはぜんぜん気づかれていなかったが、その夜の闇はじわじわと地表の光を喰い尽くして光のない世界を拡げていたのだ。

なんていう、ディーン・R・クーンツ的なホラー解説はじぶんでもおもいついた。
わたしが知りたいのは、もっとちゃんとした科学的な解説。



このまえ、村山由佳さんのラジオで流れてて、なんて美しい曲なんだろう、ってうっとり聞いちゃった。
こころがおかしくなってるわたしには、この歌詞は、じぶんに語りかけられてるみたい。



このMVもステキ。
とくに、ふたりがポスターに落書きするとこ!



posted by ぴの at 14:17| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする