2017年03月06日

たっぷりの海の週末記

冬眠から覚めるのにうってつけの日(バナナフィッシュ的な)な啓蟄のあったかい昨日とうってかわって、また冬がもりもりがんばった今日。
外に出たときの寒さが、快感。



保土ヶ谷PAで流れてるIinstrumentalのBGMがFar East Movementだらけだった。


お蕎麦食べながらこれ聞けるなんて、サイコー。
わーい。

このPAの売店は、横浜とか神奈川のいろんなお土産が売ってて、これもサイコー。
赤い靴のチョコとかすごいかわいいし。

神奈川名物の柄のてぬぐい製品とかもいろいろあって、ものすごいステキなの。
シュウマイの柄(赤地にグリーンピースが乗っかった白いシュウマイが描かれてる)のてぬぐいハンカチがかわいすぎて、わたし、人にあげるのに買っちゃった。
だれにあげるかぜんぜんかんがえてないけど、だれかになにかちょっとあげたくなるようなときに、これあげようとおもう。

書くお仕事の人たちといろいろ飲んだりして会うと、みんな、いろいろちょっとした手土産交換とかするのね。
だれかがシュミでつくったビーズのアクセとか、旅のお土産とか、ほんとにちょっとしたもの。

人と会うときに、相手のこころの負担にならないような「ちょっとしたもの」をプレゼントする、って、いいなー、っていう感覚をわたしはこれで学んだ。
だから、いろいろ「ちょっとしたステキなもの」を見つけると、あげるアテがすぐにおもいあたらなくても買うクセがついた。
人にちょっと贈る、っていう箱にそれをしまっておく。



ゆうべの漁港は道路のとこまで海面が押し寄せてて。
「海がたっぷり」
っておもった。

潮がひいて波打ち際がずーっと向こうにあるときの漁港は、
「海がちょっぴり」。




これ、ラジオで一日一回以上は聞く、ってかんじだけど。

これ流れるたびに「あ、ミッ●ーマ●ア♪」って、わたし、おもっちゃう。
ミッ●ーの声(らしきもの)もはいってるし。

でも、ネットでいろいろみても、おなじ感覚になってる人、みあたらないんだよねー。

でも、わたしの脳内にミッ●ーマ●アが重なって再生されちゃうのです。



読んだマンガのことでいろいろ書きたかったけど(「書く」ことが好きな人には、いろいろ興味深いマンガだったとおもうから)、ちょっとつかれちゃったから、それはあとで。

あとで、あとで、と、あとまわしにしてることばかりで、ほんとに、ブログになにも書かないまま過ぎてるものがいろいろありすぎるけど。

どうやったら、「書きたいときにブログを書く」みたいな自由時間を自在にもてるようになるのか、まいにち時間にただ追われてるだけの無能なじぶんに腐る。

ウソブログをつくって、じぶんでたのしんで書いてるけど。

客観的に、ああいうウソをテキトーに書いてるだけのブログ、って、人が読むとなにがおもしろいか、ぜんぜんわかんない。
それこそ、公開する必要性とかかんがえると、自己満足にもほどがある、とおもっちゃうけど。
でも、べつにどこからもお金をとってるわけじゃないから、好きなように書いてる。

それを読んでくれる人がおもったよりはいて、あんな内容で他人には内容が理解されてるのかなー、ってギモンが湧くけど、書くのはたのしいから、まだ少しはつづけようとおもう。

本の話をもっといろいろ書きたい。
けっきょく、じぶんの興味、って、そこに強くあるんだとおもう。

じぶんが「そのお仕事をしてるひとり」として、プロである立場から、差しさわりのない話を発信したいわけじゃない。
プロの書き手の人のオフィシャル的なアカウントで発信されるものって、つまんないものがわりと目につく、ってわたしはかんじてて。

もちろん、ホンネをフツーに書けちゃう人もいるけど。
ホンネを書く人には、執拗なアンチとかがいろいろついて、いろいろめんどくさいことになってたりする。
だけど、じぶんの発言って、もっと自由であっていいとおもうからねー。
その「自由」を、表現者はいちばん守りたいものだともおもうし。

きれいごとしか書いてないよねー、ってかんじる人とか、じぶんの仕事の宣伝ばかりになっちゃう人とか、わりといろいろみる。

ラジオである日、わたしは名前しか知らなかった「書き手」を知った。
その本人が出てて、その人のトークにそんなに惹かれるものはなかったんだけど、その番組でその人が書くものがあまりに絶賛されてたから、作品にものすごいキョーミ持った。
その人の名前でググッてみたら、本人のブログが出た。

飛びつくように読んだら、過去記事はいくつかこころ惹かれるような魅力的な記事があったけど、さいきんのものは、じぶんの仕事紹介とか、各方面に差しさわりのないきれいな話ばかりになってた。
そういうきれいごとを書くようになった時期っていうのは、その人が売れてきた時期、らしい。

売れるようになると、きれいな発言しかできなくなる。
それは商業的にそうするしかない事情もわからないわけではないけど、それってファンをどれだけ切り捨ててるのかなー、ともおもった。

あたらしいファンを獲得することもできるから、売れたい書き手はそういう路線に走るようになるんだとおもうけど。
商業ベースではないその人の素のコトバ、を好いてた人は、商業ベースに乗っかったコトバに裏切られたきぶんにはなるとおもう。

あのさー。
「書く人」はさー。
商業ベースに媚びるなー。

って、言いたくなるよね。
わたしは、なる。

売れないとプロとして生活がなりたたなくなる、のはわかる。
仕事だから、利益を追求するのはあたりまえ、っていうのも、わかる。

でも。

それで、いいの?

とも、おもう。

編集者サイドは。
作家が書いたものを、作家に売らせるなー。
とも、おもう。

あのさー。

自由な感覚で表現する人に、その表現したものの販売責任まで追わせちゃうのって、ものすごい冒涜にもおもうんだよね。

たとえば。
死にたくなるような人の心境を、その作家の切り口で表現して、読み手の深層までえぐりとっていく。

ぐらいの「コトバの力」を魅せた人に、「どうです。これ読むと元気でますよ。ぜひ読んでください。損はさせません」みたいな商売気まで持たせるのって、ものすごい陳腐、じゃん。

自著をせっせとツイートしてる作家。
自著への絶賛レビューをせっせと拡散してる作家。

これ、かっこいい?

好きな書き手もそういうことしてたりするから、わたしは好意的な受け止め方をして、できるだけそこに共感したいとはおもう。

でも。

ホンネは。

みっともない。

っていうきぶんになるじぶんの反応を、打ち消せないでいる。

村上春樹おぢさんは、じぶんは依頼に応じて書くスタイルの書き手ではない、ってことを書いてた。
表現者として、自由が失われてしまうから、って。

書く仕事をしてる人は、依頼に応じて書くしかない立場の人が圧倒的に多くて、依頼を断れる立場やじぶんから好きなときに持ち込んで発表してもらえる力のある人ばかりではない、っていうのが現実なんだけど。

でも、「売れるために媚びる」ことは、表現者の自由が失われる、っていうのには、わたしも共感する。

書く人は、じぶんの書くスタイルに、もっとかっこつけようよ、っておもう。

2ちゃんねるやアマゾンのアンチレビューは見ない、っていうことじゃなくて。
じぶんの作品を、じぶんで売りつけない。

売るのは出版社の仕事じゃん。
そのために、出版社はあるんじゃん。

書いたものをじぶんで売るなら、出版社なんて要らない。

書き手がじぶんの作品を売るなら、そういうフリマみたいなとこで、じぶんの作品の小冊子をテーブルに並べて、そこにじぶんが座ってお客さんが来るのを待つ、ぐらいな呑気なかんじがいい。

どうです。
読んでみませんか。
みんな、絶賛してるんですよ。
ほら、損はありませんよ。

っていう狙いの売りこみの仕方に、どんな美学があるのかなー、って、わたしはおもう。

じぶんの言動に対する美学に鈍感な表現者、って、矛盾がある気がする。

出版社は、作家に販売中の自著の宣伝をさせちゃいけない、っておもう。
発売日にお報せ的に言うぐらいはいいとおもうけど、その絶賛感想を書いた本人がせっせと拡散するような、そういう美学もへったくれもない行動を、表現者がすることに、わたしはなんか抵抗がある。

表現者とセールスマンは、合致することになんの矛盾もないのか。

っていうとこに、いろいろかんがえちゃう。



ねむくなったから、これで寝るー。
るるるー。

睡眠時間がすくなすぎて、深刻な病気になったおれが忠告するよ!
まいにち最低でも5時間は寝ないと死ぬよ!

なーんて言っても、人類は、何時間寝ようが「ぜんいん」、かならず死んでるんだけど。

いつ死ぬか、じぶんに都合のいい死期に死ねる人など稀なのだから、好きに生きるのがいちばん。

このまえの検査で、いろいろと問題ある数値を並べられて。

とにかくいろいろと「やばい」みたいなので、いろいろと気をつけて生きなくちゃいけない話をされたけど。

「気をつけて生きた場合、気をつけないで生きるのとどれぐらい生存率がちがうんですか」
って聞いたら、主治医の人は、
「うーん。気をつけて生きたって、サイアクな結果になっちゃう人もいるからねー」
って。

だから、じぶんが納得いく選択をするしかない、って話をして、じぶんもそれに同意した。

わたしはいろんな科で検査しまくる必要がある状態のカラダだから。
ほかの科の先生ともそんな話をして。

「ストレスで悪化するから」
っていう状態にわたしはある。
でも、その話をされてから、
「ストレスがない人なんていないけどね」
って、その先生は言った。

医学的に、きれいに、ただしく、なんて、人は生きれない。
なにかを犠牲にして、なにかを得る。
そのさじ加減みたいなのが、人それぞれの人生観、なんだとおもう。

わたしは、いざ余命が限られたとき、一切の延命のための治療はしない、って主治医の人に話してる。
そういう治癒に向けた治療をしない場合、その先生は、その時点でもう「診れない」んだって。
医者は「治す」ためにいるのだから、治す気がない人は診れない、んだって。

だけど、治さない人のための医療ケアみたいなものはちゃんとあって、わたしはそこに紹介されるらしい。

わたしは、いまのじぶんを厳しくして少しでも長生きしようとはおもっていないので、生きてるあいだのじぶんを少しでもラクな状態に保ちつつ、少しでも穏やかな死を目指したい、って話した。

深刻な病気をかかえると、そこに否応なしにも「死生観」への自覚が生まれる。
これは、この週末、わたしが読んだ天才小説家のマンガにも通ずる話だけど。

ただ生きることばかりが、「生きる」ことじゃない。
わたしはそうおもう。
どう死ぬのか。
それ、だいじ。

何年先になるかわからないけど、人は「かならず」死ぬ。
生きることばかり、どう生きるかかんがえる、そういう思考に自覚をもとうとする風潮だけど。

だれだってかならず死ぬのだから、じぶんの死に対する心構えがどう持てるか、ってことで、じぶんの生きる姿勢ができるよね。

わたしはいろいろとめんどくさがりで、がんばることとかキライだから、がんばらないで死にたい。
つらい「がんばり」が必要な闘病はしたくない。

そこまでがんばって生きる理由は、わたしにはなにひとつない。

だから、生きてるあいだは、とてもラクに生きてたい。
そして「やれやれ」って、息吐いて、力抜いて、命を終了にしたい。

じぶんの病気に、いくつもの「タブー」がある。
そういういくつもの禁忌をかかえこむような病気。

でも、わたしはそれをぜんぶ守らない。
それで命が縮むとか言われても、縮む命に、なんの惜しむきもちがない。

ただしく生きて。
その生き方が、じぶんには合わないとして。

合わない人生を送って、生きて、その人生に、わたし自身、なんの意味をみいだすのだろう。

だらしなく生きて、自業自得で死ぬ。
それはとてもわたしらしくて、そういうじぶんに呆れながら死ぬぐらいがラク。

あんなにじぶんに厳しく生きたのに結局死ぬのかー、なんて悔しくおもうより、「ひゃー。やっぱりだらしなさすぎて、わたし、もう死んじゃうー」って、じぶんに悪態つきながらへらへら死んだほうがラクな気がするもん。

いくつかのクスリを経済的に断って。
主治医が「うーん」っていう数値に、その治療はしない選択をして。

それで、ずーっとこれ以上は悪化しない可能性だってあるからねー、って慰めのように言う先生のコトバに、「結局、運任せでどうにもならないってことですよねー」って、わかったようなクチをきく。



書いたもの、が、人に認められたり、売れたりすることばかりが、書く目的ではなくて。

生きること、は、ひたすら長く生きることばかりが、生きる意味でもなくて。

やっぱり、この週末読んだマンガ、そういう話をするのにいいネタがごろごろ詰まってる。



あのね。
飲みながら書いてたから、もうここで酔ったかんじに脳がとろけてて、じぶんがなに書いてるのかわかんなくなってきた。

じゃあのー。

posted by ぴの at 20:54| オーランド ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする