2017年03月20日

死生観を描く

部屋を整理してたら、しっかりしたつくりの書類ケースが出てきて、一体このなかになにがー、って、中にいれてたものをかんぜんにおぼえてなかった。
だから、玉手箱あけるみたいに、ものすごいわくわくしてあけてみたら、「去年」書きかけてやめた原稿のプリントがでてきた。

たった一年まえ(正確には一年経ってない)の記憶が、もうこんなにきれいに「無い」。
('_')

それも、じぶんで書いた原稿なのに。
それも、ものすごいいろいろ資料読み込んで書いたやつなのに。

それは「小説」で、お仕事で知り合った編集者さんから、単行本一冊分の小説書いたらみせて、って言われて、書いてみたものだった。

その原稿を読み返してみたら、じぶんにしては文章うまいー、っておもった。(仕事の原稿はもっとちゃんとしたニポンゴで書いてるよ!)
でも、ぜんぜんつまんなくてわらった。
じぶんでこれ、おもしろいもの書いてるつもりで書いてたわけだからね。
それが、こんなに時間経ったじぶんが読み返してみると、「よく書けてはいるが少しもおもしろくない」っていうのが、ちゃんとわかる。

人の本読んで、いろいろ批判したりしてるけど、これが万が一本になったしたら(なりません)、じぶんがものすごい辛辣な批判するはず。ぜったい。

このまえ読んだ『響』ってマンガに通じるものがある、ってのも気づいた。
じぶんで一年(も経ってない)まえに書いた小説を少しもおぼえてなかったから、あのマンガ読んだときに、それを思い出しもしなかった。
そんなじぶんに呆れたけど、こんなあたまで書いてるから、おもしろくない小説をおもしろいつもりで書いたりしてたんだねー、ってわらった。

※この記事は、そのマンガの感想ではないです。それを読んだじぶんがいろいろかんがえたことを書いてるだけ、の、じぶん語り。レビューを探してきた人は、ちがうサイトに移ってねー。


響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス) -
響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス) -

このマンガをいま出てる5巻ぜんぶ買って、一気読みした。
それをブクログに記録して、は3つつけた。

ツイッターで現役作家の人が絶賛してたので、5巻まとめて買って一気に読んだ。
だから、5巻まとめての感想。

「おもしろかった」
っていうのが、素直な読後感。
でも、このおもしろさは、文芸系出版界の内輪話への興味がほとんど。
それと、主人公以外のキャラクターがいろいろと魅力。

「うーん」
それなのに、☆を3つしかつけなかったのは、このマンガをひとつの創作作品として読むと、そんなにおもしろくはないかなー、っておもったから。

人格はいろいろとアレだけど文才は天才的、っていう主人公のキャラクター性にすべてを依存したストーリーなんだけど。
肝心の主人公の「すごさ」が、ただ「すごいーすごいー」というほかのキャラクターの絶賛のコトバで語られてるにすぎなくて、ゾクゾクするようなすごさが読んでて感覚的に伝わってこない。

ものすごい革命的な小説を書いちゃったらしいけど、その小説は一行も文章として出てこないし。
たぶん、アスペの設定なのかな、っておもう主人公の性格も、ちょっと「?」っておもうぶぶんがいろいろあって、「猟奇的な天才」の魅力はぜんぜんかんじれない。

「天才」のすごさを描く物語、ってむずかしいね。
でも、続編に期待。
このつづきも買ってく予定。


このマンガにもわたし、「おもしろくない」とかケチつけてる。

うふふ。←失礼なやつ

このマンガは、主人公の響がものすごい天才的な文才を持ってて、新人賞に応募規定をまったくムシして送りつけた原稿が受賞して、芥川賞と直木賞同時受賞までしちゃった、っていうストーリー。(それも単行本が発売されてもいないうちに受賞)
主人公はまだ15歳、高校生。
でも、すごい文学賞ダブル受賞なんてしちゃったデビュー作は、死生観を描いたストーリーらしくて(ぜんぜんその小説は1行もでてこないし、あらすじもでてこない)、こんな綺麗な死に方があるのか、って読んだ人を泣かせるような小説。

15年しか生きてない人が書く「死生観」って、どんなんだろう、ってとこに、わたしはすごいキョーミが湧いた。
だってこの主人公、たぶんアスペっぽい設定なんだとおもうけど、アスペというより、じぶんの言いたいこと、じぶんの正義、じぶんの感情、に無自覚な自信をもって、他者の心情や都合をまったくムシした行動にでる、っていう、自由性というか小児的な描かれ方しちゃってるからねー。
「他者」をじぶんの感覚でしか扱えない自信者が、どんな死生観を描いて、それで出版界に「革命的小説」として衝撃を与えるんだろう、って、わたし、ほんとにその小説を読んでみたい。

15歳で天才的デビューをした表現者、っていうと、わたしは宇多田ヒカルさんを重ねた。
音楽界にものすごい衝撃を与えるだけの力があった、っていうのは、小室哲哉さんの話なんかを読んで知った。

でも、宇多田ヒカルさんは、ものすごい他者へのおもいやりがある人で、人のこころ、をきちんと読めて、じぶん主観の外の世界にいろいろ想像が飛ばせる優れた感性をもってる人だなー、って、彼女のいろんなことを知るにつれて、わたしはそう受けとめてる。

まったくそれとはちがうニンゲン性の響が、どんなふうに描いた死生観でおおくの人たちの魂を揺るがすのか。
懐疑的、という意味はなくて、そこにわたしの想像がつかなかったから、実際にその小説をどうしても読んでみたくなった。

響は高校で文芸部に所属してて、そこには「小説」を書く部員が数人いる。
そのだれもが、部誌を発行する話になるとすぐに短篇を出せるぐらいで(これってけっこうすごいことだとおもうよね)、ひとりは響とおなじように文壇デビューする。
そのデビューした子は、おそらく村上春樹が元ネタみたいなかんじの文芸界カリスマ的作家の娘。
ちいさい頃から小説を書くのが好きで、「書くこと」にずっといろいろ努力をしてる。
だけど、響はその人の小説も、辛辣に批判する。
響は文壇の有名作家にも、辛辣な批判を本人に向かってしちゃう。

そういうキャラクター性が彼女の「特徴」として描かれているけど。
わたし、小説って、そんなに天才的でないと価値がないかなー、って、おもった。

ネットで、いぜん、「だれが書いたか」っていうのと「なにを書いたか」っていうのは、どっちがだいじか、みたいな議論を見かけたことある。
どっちがだいじか、っていう結論がでてきたのかはわかんないままだけど。

小説はどうなんだろ。

作家の人格なんてぜんぜん知らない場合、読んだ小説しか評価しようがないけど。
村上春樹おぢさんなんかの場合は、小説そのものの文学的価値、より、わたしは、春樹おぢさんの人生観をかんじとりながら読むことにキョーミがつよい。
それは、わたしが「作家・村上春樹」って人にキョーミを持つから。

「比喩」について、いろいろ批判する書評もみたけど、その人でないとでてこない比喩、っていうのはあるとおもう。
それは、その作家のニンゲン性とか感性とか、書いた人の「中」のあらわれ、だよね。

おなじプロットでちがう作家が書いたら、「比喩」のぶぶんなんかはぜんぜんちがうものになるとおもう。

他者の都合になんの配慮もできない感覚の作者が、他者を感動させる衝撃的な死生観を書けるのなら、それをどう書くのか、ってとこを知りたい。

わたし、これに失敗したからね。
それは響とわたしの文才がちがいすぎる、ってことで片づいちゃう話かもしれないけど。
発掘した「書いたのをわすれてた去年の小説」を読み返してみて、響に書けてわたしには書けなかったのは、なにがどう、わたしには欠けていたんだろう、ってかんがえちゃった。
あくまでも、文才以外の話。


いつの時代のどこの国かもわからないのに、
懐かしい風景が眼前に広がって、
この世界で人が人として生きるって、
こういうことなんだなって。

生き方の正解を感じたの。

業界に新風なんてレベルじゃない。
世界を変えられるような、
見たこともない何かを私はずっと探してて。


応募の規定を全くムシして送られてきた響の原稿を、未開封で捨てられたゴミ箱から拾って天才的才能を発掘した編集者が、響にこう言う。

その小説には、
私の価値観
感じ方
物の見方、
そういったモノを詰め込んだの。


そしたら、15歳の響はこうこたえて。

最後のシーンには特に集約されてますよね。
初雪の降る山中……
人ってこんなに綺麗に死ねるんだって、
言葉が出なかった。


編集者がこう感想を語って。
※引用3つとも、『響 小説家になる方法・1巻目//作:柳本光晴』より。

断片的に、こんなかんじの小説だとはなんどか「語られるコトバ」で出てくるけど、これ以上の情報ナシ。

なんとなくこの小説語りだけで、わたしがイメージしたのは、梨木香歩さんの『裏庭』だった。

裏庭 (新潮文庫) -
裏庭 (新潮文庫) -

それと。
「人ってこんなに綺麗に死ねるんだって、言葉が出なかった。」っていう感想から、おなじく梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』が思い浮かんだ。

西の魔女が死んだ (新潮文庫) -
西の魔女が死んだ (新潮文庫) -

どちらも『響』を読むまでわたしは読んだことがなくて、梨木さんのエッセイを途中まで読んでて、なんとなく小説のあらすじとかしらべて、ざっと知ってたの。

春になったら苺を摘みに (新潮文庫) -
春になったら苺を摘みに (新潮文庫) -

エッセイはこれね。

『裏庭』は、響のその小説のタイトルが『お伽の庭』だったことと、架空の世界で人の生死を描く、っていう設定が、イメージ的に重なったのね。
『西の魔女が死んだ』のアマゾンのレビューには、「うつくしい死」と書かれてたし。

そんなイメージが勝手に浮かんだから、わたしは『響』を読んだあと、『裏庭』も読みだした。
まだ途中だけど、この小説、すごいよ。
どうすごいか、うまく言えないけど、日本にある小説の中では異色だとおもうし、児童文学のファンタジー、ってジャンルになるのかもしれないけど、そこに描かれる死生観がオトナにも重たい。

もし、これを15歳の高校生が書いたら、ものすごい話題になったとおもう。
でも、15歳にこの死生観、書けるかな、って、わたしはおもった。

だって、主人公の響は、じぶんが言いたいことはどんな内容でも「言う」けれど、そのコトバを受けた側の人のこころがどうなるか、そこになんの想像もできてないから。
それがアスペ(らしい)、っていう設定のせいなのかもしれないけど、その相手が自殺してもフシギじゃないことを言ってのけたときは、少しだけ言うべきか迷ってた。
迷ってた、っていうとこに、「それを言っていいのか」っていう理性なんだか良心なんだかの僅かな作用がはたらいたのだとしたら、ちょっと響のキャラクター性に矛盾をかんじちゃって。

人からみると常識を逸脱した言動に、あまりカリスマ性がないんだよね。
ものすごい天才、と描かれているけど、その天才性がいまはまだわたしにはかんじれなかったから、「人の死」を彼女がどうとらえてるのだろう、って知りたい。
迷いながらも言ってのけたコトバは、ほんとに相手が自殺してもフシギはないことで、でも、言う必要性があるとおもえないただの凶器的なじぶんの雑感にすぎなくて、そんなじぶん本位のかんがえで、人をひとり殺してしまうことになんのおそれもない、っていう人が、どんな「綺麗な死」を創れるのー。

カンタンに命を損なう言動にでるのは、それ以外にもいろいろとエピソードが出てくる。
そういう彼女と、文学界に衝撃を与えた死生観を描く作家と、わたしにはどうしても結びつかない。

このマンガ、「小説家になる方法」ってサブタイトルみたいなのがついてる。
ぜんぜん小説家になる方法が出てくるわけではないから、響がどう天才小説家になったのか、彼女自身の小説家になっていく道、が描かれる物語なのかな。

なぜ、他者の都合を配慮しない人が死生観を描けるのか、その過程がマンガに描かれるといいなー。

『スプートニクの恋人』は、15歳の高校生に書けるか。
あれは、村上春樹だから書けた世界観だとおもうし、彼の人生から湧いた感覚がそこに反映されてると、わたしはおもった。

スプートニクの恋人 (講談社文庫) -
スプートニクの恋人 (講談社文庫) -

わたしには、この小説も「うつくしい喪失」を描いてるとおもって。
すみれは死んでるのか生きてるのかわかんないけど、「いないけど、いる」存在。
こんな死生観の描き方もあって、わたしはじぶんが知ってる「死」をいろいろ重ねて、この小説に強烈に惹かれた。

でも、15年しか生きてない人に、15年分の死生観しか描けないか、ってかんがえると、そんなこともない、ってわたしはおもう。

じぶんの経験にはないものは、人の経験や本などからいろいろと取りこめる。
作家は、どんな世界も創れる。

そうかんがえると、響がどんなニンゲン性であっても、そのニンゲン性と結びつかない世界観を創作することは、不可能ではない、ってこと。
それができるから、響は「天才」なのかな。

って、ごちゃごちゃかんがえた。

このマンガ、そういう意味で、いろいろかんがえるポイントがおおい。

わたしが去年書こうとした小説は、さいしょ、「ホラーなんて書いてみたら?」って話を振られて、わたしにもホラー小説書けるのかなー、なんておもいながら、「小説家」への転身の可能性にもちょっとひきずられて、それで書こうとしてみたもの。

去年のわたしは、お母さんの死、を経験してる。
その話を振られたときは、お母さんはまだ生きてたけど、お母さんは「一切の治癒の可能性」に背を向けて、治すための治療はなにひとつ受けず、進行状況を確認する検査すらすべて拒否して、「死ぬ苦痛を緩和する」医療ケアのみを受ける選択をしていた。

まだ病死するには若いこと、まだ延命の可能性はあること、それなのにそういう治療を拒否したことで、お母さんはそれまでかかってた主治医と喧嘩にもなってた。
わたしは、お母さんが「治さないで死ぬ」選択をとったことに、お母さんには言わなかったけどショックは強かった。

わたしはもう自立してあたりまえの年齢だけど、でも、弟は学生だし、卒業したあとでも発達障害的な問題を多少かかえてる弟はいろいろ自立には心配。
その弟を遺してもう死んじゃうの?
っていうのは、わたしはショックだった。
弟を捨てるの?
って。

でも、お母さんは、その病気がさいしょにわかったときは、ものすごい苦痛な状況に追い込まれる状態で、わたしと弟のために「生きる」選択をしてくれた。
お父さんはそのとき、生きてたけど、なにもしなかった。
お母さんは、あのときは子どものために生きようとした。
でも、たぶん、ものすごい苦痛だったのかもね。
だから、再発したとき、それを繰りかえす力など、もうなかったのかもね。

お父さんが家族を見捨てていい加減に生きてたとき、お母さんはウツになって、それでもわたしと弟を一生懸命育ててくれた。
ウツが治りきってなかったとしたら、子どものためには生きなければいけない親の責任感と、希死念慮と、どうお母さんは折り合いつけてきたんだろ。

再発したときは、ウツがお母さんに「もうがんばらなくていいよ」って、ラクにさせようとしたのかもしれない。

わたしはそんなことをいろいろかんがえてばかりの、そういう時期だったから、「人が死ぬのに最適な日」ってあるのかな、っておもったの。
バナナフィッシュにうってつけの日があるならば、人が死ぬのに最適な日、もあるよね。

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫) -
ナイン・ストーリーズ (新潮文庫) -

だけど、あの小説は、シーモアは自殺しちゃうけど、シーモアが自殺するのにうってつけの日、にはならなかった。
遺された家族、それから、あの小説の読者は、シーモアがなぜ自殺したのか、そのナゾをかかえて生きることになったのだから。

生まれてきたことに、人はいろんな意味をつけようとする。
それは「生」とは受動的なことだから。
じぶんの命をつくったのは、じぶんではない。
だから、じぶんが生きるのに、じぶんでその意味をみつける必要があった。
というか、意味をみつけることで、じぶんの「生」をじぶんのものに取り戻したい衝動が、知能の高いニンゲンにはあるのかも、ね。

腐敗した世界に堕とされた、なんて歌があったけど、そんなふうに人は生まれてくるときはじぶんの選択はないようにとらえる。
でも、死、は、選択の可能性を持つ。

※歌詞参照:『月光』作詞・鬼束ちひろ

腐敗した世界に嘆きつづけてないで、そこから去る選択、も、できる。
薔薇色の世界に降りてきて、ずっとここにいたくても、その意思に反して天に戻されてしまうこともあるけど、死は「神の意思」だけではなく、「じぶんの意思」にもなる可能性を孕んでる。

人はなんで生きるのか。
それは、すべてが「前向き」な価値観ばかりではないはず。
死にたいのに、死ねない人、もいるだろうし、いつかはだれもが死ぬものだとしても、できればじぶんに都合のいいときに死にたいと、その「都合のいい死」を待ってる人もいるだろうし。

子どもが巣立って、もう「親としての責務」を果たし終えた人が選ぶ熟年離婚のように、選択した熟年自殺、もあってもフシギじゃない。

たくさんがんばった人生の、最期の選択ぐらいは、じぶんをしあわせなものにしたい。
そういうかんがえを、無自覚にでも持つことはあるだろうし、「しあわせな死」ってなにかなー、ってかんがえると、愛する家族にみとられて孤独死しないこと、もひとつの「しあわせな死」だとおもうけど。
「これでおしまい。じゃあの」って、じぶんが死を納得して人生が終わる、そういうのも「しあわせな死」だとおもった。

お母さんは、「いままではずっとがんばったよ。でも、もうこれでおしまい。じゃあね」っていう選択をしたのかな。
お母さんは、死ぬ瞬間、わたしの手をぎゅっと強く握った。
あれは、お別れの合図、だったのかな、って、わたしはいろいろかんがえる。

「終わるよ。お母さんは。これで。」
って。
生まれた赤ちゃんは、母体から出たらすぐに泣く、っていうけど。
それは「生まれたよ」って合図なのかもね。
死ぬときも、人は合図するのかもね。
合図ができる死は、できない死よりは、しあわせな死なのかもしれない。

そんなじぶんの体験したいろんなものから、「死ぬには最適な日」というものを書いてみたくなった。

それで、その主人公は、「ぜったい死ぬわけにはいかない人」にした。
(もう「ホラー」とかそんなジャンル、あたまになくなってる)

どういう人が「ぜったい死ぬわけにはいかない」のか。
いろいろ考えて、わたしはやっぱり「子どもがいる親」にした。
それも、その人が死んだら、子どもがすぐに困る状況。
だから、シングルマザー、にした。
子どもの父親は、母親が死んでも子どもを育てない人。
そのシングルマザーは、ほかに子どもを愛して育ててくれる身内はひとりもいない境遇。

そうやって、主人公を「追い詰めた」。

でも、その母親は「あたまがわるくない」キャラクター性にしたから、じぶんが死んだあとの子どものことは当然いろいろかんがえれる。
現実的に、福祉、が子どもを「なんとかする」。

子どもは施設にひきとられて育つ。
施設の子がしあわせか、っていう問いもあるかもしれないけど、両親揃ってる家庭で育てられた子どもがすべてしあわせにはならないように、親のない子たちが施設で育つことは「不幸」とは限らないかな、っておもった。

じゃあ、施設に子どもを委ねれるなら、親はそれで「安心」にはなる。
それでも「親が子どものために死ねない理由」はなにかな、ってかんがえた。

それは「愛」かな、っておもった。
子どもを愛してる親ほど、じぶんの愛を直接注げない境遇に子どもをひとりきりで遺すことはつらいよね、っておもった。
でも、「愛」とは、執着。

人は執着を現世に遺せば、いつまでも死ねない。

その執着を捨てれるとき、はあるのか。
って、かんがえた。

愛して愛してやまない我が子。
でも、その子と離れることができるとき、が、親にはあるのか。

それがなければ、親なんて地獄だとおもった。
子どもから離れられない親は、生きながら地獄にいるようなものだとおもった。
子どもがどんなに親を必要としてる状況だとしても、ニンゲンは絶対的にその子のそばにいれる保障なんてない生き物なんだから。

子どもを遺して死んでいく親は、不幸でしかないのか。

ちがう。
子どもを愛する親こそ、そんな不幸を背負わないで死んでいいはず。
って、わたしはおもった。

愛する子どもをとても残してはいけない状況で、親は死ななければいけなくなって。
その死を、「死ぬには最適な日」にする、そういう物語をかんがえた。

子どもは孤児になってもしあわせに育てられることになりました。めでたし、めでたし。

っていうファンタジーではなくて。

どう育てられるかわからない不安を残したまま。
でも。そんな子を遺して死んでいく親が、「いま、死ねる」とおもえる瞬間に、穏やかなきもちで人生を終えれる。

そういう物語を書こうとおもったの。
わたしは子どもを生むつもりもなかったから、シングルマザーのモデルは、わたしのお母さん。
あとは想像のキャラクター。

障害者施設でわたしはずっとボランティアをやってるけど。
そこで知り合った利用者さんの親の人の話をいろいろ聞くこともある。
いまの日本では、ものすごい重度の障害者のほうがいいんだって。
ちゃんと福祉制度が行き届いてて、身内が万が一ぜんいん死んでいなくなっても、ちゃんと入所施設で死ぬまでめんどうみてもらえるから、って。
でも、いろいろ福祉制度の網目から落ちてしまう障害区分の人たちは、家族がいないと自立なんてできないのに、家族がいなければヘタすればホームレスみたいに「放り出されて」しまう可能性もあるんだって。
そういう状況の障害の子どもを持つ親の人は、「ぜったい死ねない。死んでも死ねない。だからじぶんより先に死んでもらうのがこの子のしあわせ」って話してくれたことがあった。

わたし、その話、すごいショックだったんだよね。
じぶんの子が先に死ぬことがしあわせになる、そんな社会に、じぶんも生きてるんだって。

だけど、社会は理想通りにカンタンには変わらない。
いつか未来はもっと理想に近い社会になるかもしれないけど、「いま」を生きる人は、「いまの社会」で子どもを育てるしかない。

子どもを不幸にしたくない親ほど、死ねない。
そんな親に、「しあわせな死」はないの?

って。

人を守って生きてる人に、しあわせな死はないの?
人を愛する人ほど、死ぬことが苦しみなの?
って。

わたしはそんなことをぐるぐるとかんがえてた。
お母さんが死んだあともいろいろかんがえて、小説を書きだした。

だけど、それを途中で投げ出したのは、ぜんぜんホラー小説ではなくなったから、編集者さんにみせても本にしてもらえる可能性はない、っておもったから。
なんとなくほかの原稿のシメキリ優先になって、バイトもバカみたいに忙しくなって、いろんなことをその小説より優先させて、わたしの意識からも薄れて、さいごは消えて、書類ケースにいれたまま埃がたまるまで忘れちゃったんだとおもう。

その書類ケースは100均なんかのじゃなくて、やすくないやつだから、その原稿はだいじにしてたつもりなんだろうけど。

でも、いまこうやって時間を置いて読み返してみると、小説としてぜんぜんおもしろくない。
いまのわたしは、じぶんが書いた主人公のシングルマザーにぜんぜん感情移入できない。
主人公を、子ども嫌いなわたしがシングルマザーなんかにしたことが、そもそも間違いだったのかもしれない。

主人公に感情移入しなくても、小説って書けるものなのかな。
それもわかんないけど。

じぶんといろいろ価値観がちがうぶぶんを持つ主人公の小説を、書けるもんなのかな。
「死生観」のぶぶんは主人公に植えつけることはできても、じぶんの命より愛しい存在をもって生きる「よろこび」がわたしにはわからない。
そんなめんどうくさいものをかかえて生きたくはないから、わたしはひとりのほうがラクなんだし。

15年しか生きない響が、中高年世代の人たちも唸らせる死生観を描ける。
ひとりでしか生きたくないわたしが、じぶん以外のものの価値観を描けない。

文才の差以前に、なにかがわたしには響より欠けているのか、響はそれができるから「天才」であるのか。

小説家として「天才」っていうのは、具体的にどんなの?

その未完成なまま、じぶんの限界を知って、永久に投げ出したままになりそうな死生観系小説は、これが元ネタ。

《即興小説》トンネルの向こう


なつかしいよねー。「即興小説」。
いまもまだあるんだねー。
またやりたいなー。
でも、じぶんのアカウントのパスワードわすれてた('_')

母親が、ある日突然いなくなった子どもを探すの。
いつまでも追いかけつづけて、いつかあるとき、それを諦める瞬間が来る。
そのときに、親は「子を遺して死ねる」。

死ぬわけにはいかない人が受け入れる死は、「諦め」かな、っておもって。
でも、その「諦め」は、不幸なものではない、ってことを書きたかった。

響なら、そんなこともおもしろく書けないのならモノカキにしがみついて生きてる意味ないじゃん、って言いそうだよね。
書けないのに、どうして生きてるの?
って。
良い余生を、って。

へいへい。←こんな反応がいま自然にでたわたし、響がきらいなのかも。文才の嫉妬なんかじゃなくて、なんかきらいっていうより、ほんとに魅力がわかんないんだよね、あのキャラ。

うふふ(^_^)←うふふ、ってわらいはいろいろと万能ねー


あ。
即興小説読み返したついでに。
わたしのウソブログ「これ」とか「これ」の元ネタは、これです。

《即興小説》ガラパゴスの作家



『響』のマンガは、主人公以外の「小説書き」の人たちの書く小説とかがいろいろおもしろそうだから、その話はまたそのうち書く。(カクカク詐欺)




posted by ぴの at 20:31| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする