2018年08月08日

カプチーノとカフェラテのちがいがわかんない

ファミレスのドリンクバーで両方作ってみるけど、いつもわたしにはおんなじに見える。
どっちも泡ぶくぶくのミルクコーヒー。


大人になる、っていうのは、大人になろうとする成長を止めることで、達観、っていうのは、まわりに鈍くなること。

せっくすがめんどくさいとおもうようになったころから、わたしはなんか解放された。

親密度があがるとすぐに性欲を剥き出しにする「おぢさん」に散々うんざりしたら、わたしは「知的なオトナの男性」への憧れがなくなった。

恋人とか配偶者って形でパートナーを持つ意味がすこしわかってきた。

あなたとはなにがあっても性的関係に発展させることにはなりません、って暗黙の意思表示が、さいしょからできる。
不貞OKな感覚の人の性欲には、不貞NGなきれいな拒絶をできる。

やわらかいオンナなんかになりたくはない。
わたしはわたし。
好きも嫌いもわたしが決める。
人にひきずられる柔軟性なんて纏えなくて、つきあいづらいと避けられるぐらいがじぶんの安寧を守れる。

社交性の価値がわからない。
かかわる他人の数と、じぶんの成熟度は比例しない。

すこししかいない友だち。
たまにしか会わない家族。
ベタベタしない恋人。
縛らない他人。

ひとりきりの時間をどれだけ持てるかで、命の長さがかわる。

魂を削らない。
じぶんを売らない。

いろんな人たちを下らなくおもえるようになったじぶんを、オトナになったのかなって。
人をバカバカしくなって切り捨てられるスキルがついてきたじぶんを、どこかで見下すじぶんがいて、わたしはわたしの高みに立って、じぶんの人生を見渡す。

こんなふうになったじぶんが嫌いでもなくなるんだとしたら、わたしはわたしにだいぶ寛容になった。

寛容は鈍さ。

使い込んだ刃物が摩耗するように、じぶんの尖ってた部分がなんの役にもたたない丸さを持つ。

じぶんはしあわせに生きてるけど、わたしはだれかをしあわせにすることはない。

どこまでもひとりぼっち。



posted by ぴの at 15:12| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする