2017年11月08日

現実を捨て書に隠ろう

久しぶりにじぶんのブログにログインして、いろんなこと書きたいけど、そんな時間もなくて、ただ殴り書きみたいに、キーボードを殴り打ち、する。

さいきんのわたしは、ネットあそびをぜんぜんやらなくなった代わりに、図書館通いにはまってる。

いままではブックオフで税抜き100円の文庫棚から好きなだけ買いこんで、それをぜんぜん読みきれずに紺色の袋に入れたまま部屋に積ん読の山を築いてくばかりだったけど。

あるときとつぜん、断捨離の呪いにかかって、たーくさん買った古本を、ぜんぜん読まないまま、たーくさん捨てはじめた。
(ごめんなさい。すごいバチアタリみたいなことしてる)

そうでもしないと、家の中が少しも片づかなくて、でもいろいろ片づけたいきもちは募ってて、「捨てる」っていう方法がいろいろ一番だったから、捨てれるものは捨てる、っていう不用品粛清の家庭内恐怖政治を目指したの。

それで、「図書館にある本は所有してはならない」っていうMy法律をつくって、じぶん的合法読書に励みだした。

そんなわけで、地元の図書館は、いまは「わたしんちの別館書庫」ってことになった。
家に置き切れない本を「別館」に置いてるのです。(わたし的に)

貸し出し本の返却期限は2週間だけど、わたしはヒマがあると図書館に行ってる。
いままで、ヒマがあるとブックオフに寄ってた感覚で。

ふらっと寄って、まずは新着コーナーや返却ワゴンを見る。

じぶんが探したい本は、館内検索機でカンタンに探せるけど。
それって、アマゾンで欲しい本を買うみたいなものね。

でも、欲しい本が特にあるわけでもなく、ふらっと街の本屋に立ち寄って、目についた本との出会いをたのしむ、みたいに、じぶんのアンテナが向いてない方向性の本との出会いを図書館でもたのしんでる。
それは、「人の選択」に依存した新着本や返却本がうってつけ。

じぶんがぜんぜん知らなかった「こんな本があるんだー」っていう出会いの感動は、「人の選択肢の中」にあるんだよねー。

インターネットでいろんな人が書くものをザッピングしてた感覚で、図書館でいろんな書物をザッピングする。

わたしのブログ時間が減ったのは、そのぶん、「本」へのアクセスに移行したから。

人生って、「本」があれば、充分に足りる、っておもう。
100人の人と出会うことより、1冊の本が人生に深みをもたせることもある、よね。

インドア派のわたしは、100人のニンゲンに会う体力も気力もぜんぜん持ち合わせてないけど、100冊の本を読もうとする欲望はやすやすと持てる。



返却ワゴンで見つけた「ぜんぜん知らなかった作家」の小説が、あまりに美しい文章すぎて(なんでせう、この日本語)、ほんとに涙が出てきちゃう感動に落ちた。(恋に落ちた的表現)


天使のゲーム〈上〉 (集英社文庫) -
天使のゲーム〈上〉 (集英社文庫) -

上下巻の、まだ上巻の、それもまだ途中までしか読んでない、の。

それなのに。
それでも。

この小説は、あまりに隠喩が美しくて、なんかね、その美しさにほんとにね、読んでて涙が出てきて、じぶんでもヘンだとおもったけど、でも、泣けるような感動、っていうのを味わってる。
じぶんにもそれだけの文才があれば、いま、もっとマシな表現で麗しい感想を書けるのに。

でも、わたし。
こんなにも美しい文章を読める幸運に陶酔する。

こんな美しい詩的な表現で小説を書けたら、どんなにしあわせだろ。
どんな美人より、どんなお金持ちより、美しい隠喩を生みだせる知性に、涙が出るぐらいにわたしは魅せられる。

これは訳者の文才もすごい作品だとおもう。
こんな美しい日本語に訳せる才能があったからこそ。


さいきんのわたし。

萩尾望都さんの繊細な絵に魅せられて。
カルロス・ルイス・サフォンの美しい比喩表現に酔い痴れて。

それから。
万年少佐のドイツ人に、恋をして。

三次元に生きなくてもいい気が、してる。




posted by ぴの at 20:16| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月25日

じぶんのしあわせをじぶんで手にいれるしあわせ

夏がもりもりな盛夏のいきおいを取り戻せないうちに、梅雨から秋雨に一気飛びしたような雨だらけの日々のまま9月になって、それももう終わろうとして。
雨と雨のあいまの晴れの日に、いつのまに進んでた季節のうつろいを青空にかんじる。
青空の雲が変わってくんだよね。

このまえの台風のあとの晴れの日は、春は桜色の絨毯になっちゃう古い桜の木に囲まれた芝地に、金色の桜の枯れ葉が一面散りばめられてた。
いっしゅん、晩秋の森にまよいこんだ錯覚がした。

まだ9月に、こんなに枯れ葉が地面を被ったりしたこと、あったっけ?

ことしは9月になってから、いつもなら夏の終わりの主役になるツクツクボウシがよく鳴いて、肌寒い雨の日でも雨が途切れた薄暗い昼間にヒグラシが弱々しく鳴いて、下旬になっても晴れた日だけ雨の日は沈黙してたアブラゼミが復活する。
弱々しい夏には夏の虫たちも弱々しくひっそりと生き延びてるかんじ。



8月は、買ったばかりの中古車の調整にいろいろ追われてた。
新車価格があまりにたかすぎる車種を、わたしごときが一括で買える程度の値段の中古車だったから、もちろん最新モデルなんかじゃなくて、何世代かまえのモノだし。
わたしに親切にしてくれる車屋のおじさんがちゃんと選んでくれた程度のいいものだったけど、買ったときにはまだわからない経年劣化のトラブルが、いろいろ走ってるうちにわかってきて。

おじさんが選んでくれた中古車には、正式な保証期間なんてなかったけど、買ってから出てきたトラブルの修理はぜーんぶ無料でやってくれてる。
数万する部品の交換もあったから少しは払うって言ったけど、買ったばかりの車でこんな高額の修理が必要になるのはわるいから、って、ぜーんぶタダで直してくれてる。

おじさんは、売った時点ではまだわかんなかったトラブルだったけど、こんなにトラブルが頻発してごめんね、って謝ってくれた。
でも、わたしはおじさん以外のとこでこの中古車を買ったら、こんな価格では手に入らなかったのは、この車種の中古価格相場を調べたからわかってる。
だから、その後の中古車ならではのトラブルの修理代ぐらいは覚悟して、その予算も見積もってたから、無料で直してくれたのは、ただ感謝しかなくて。

中古車は安いほど、その後のメンテにそのぶんお金がかかるもの、っていうのはお父さんから教わってたし。
わたしは古い車はたのしい、って車屋のおじさんに言った。
修理のお金は新車よりかかるけど、新車はそのぶん、高額なローンを組んで、それが払い終わった頃にはいろいろトラブルが出てくる頃で、けっきょく乗り換えるか修理かでまたお金がかかる。

中古車は、なんとかじぶんで払える価格でいちおうは車が手にはいるし。
それも、いまはもう新車では売られてないけど乗りたい、っておもう車種が選べるし。

それに、いろいろ必要になる修理をしていくと、車の仕組みがいろいろわかってくるのがおもしろいんだよね。
新車を乗り換えていたら、わたしはオルタネーターの仕組みも知らずにいたとおもうし(その名称すら知らない車乗りの知り合いおおいよ)、長く乗るとこんなとこが経年劣化するんだー、って、いろんなとこの車のくたびれ方を知れる。

車屋のおじさんは修理をしてくれるたびに、どんな修理をしたか、どのぶぶんがこれからダメになっていくか、車を長く乗るためにはどんなメンテが必要か、いろんなことをわたしにもわかるように詳しく丁寧にいちいちおしえてくれる。
このおじさんがいるから、わたしは中古車をたのしく乗り続けられる。

だって、女のドライバーなら経験してるとおもうけど、ガソリンスタンドでもディーラーでも街の整備工場でも、女、っていうだけで、必要のない部品の交換を、さもいま命にかかわる事故を起こす寸前だったみたいに脅して、要らないオプションもぜんぶつけた高い価格で売りつけてくるから。

ちょっと話がズレるけど、事故なんかのとき、警察だって「女」のほうに一方的に過失があるように決めつけて、女の運転をぜーんぜん信じてない。
車のメンテも、女は車のことに無知、ってナメてくるとこばかりで、ひとりに一台必要なイナカなんて80代のおばーちゃんだっておっきなセダンを運転してるぐらい女性の運転率高いのに、まだまだ社会的に「運転免許をもった女」を一人前に認めてくれてない空気があるなー、ってかんじる。

わたしはじぶんのお金で買ったこの中古車を、すぐに愛して、これから動くかぎりはずーっと乗りつづけたい、っておもってる。
だから、この先、どれぐらいの部品交換の費用がかかるか、だいたいはわかってきたから、そういうお金もちゃんと貯めていくつもり。

わたしが買うまえは、この車を新車で買ったオーナー以外は所有してなくて。
その人も、せっかくのこの車、あんまり乗ってない状態で。
ろくに乗らないまま所有してる年月がある程度経って、それでわたしのとこにやってきた。

わたしはちょくちょく200km〜400kmぐらいのドライブに出かける人だから、いきなり長距離を走りまわされるようになって、それまではなんにも目立たなかった劣化ぶぶんがいろいろ悲鳴をあげるようにトラブル起こしだしたかんじ。
わたしは、それを溜まってた膿を出す治療みたいに、ひとつひとつ治療して、車を健康体にしていこうとおもってる。

まえのオーナーがなんにもヘンなクセをつけてなかった車は(それだけ大して乗ってなかった証拠)、すぐにわたしの運転に馴染んで、さいしょっから車とわたし、ものすごい相性がいい。

買ったばかりのとき、まえのオーナーがいちども換えてなかったっていうタイヤは、まだミゾがしっかりあってきれいなままだったから、おじさんがまだまだこれ乗れるね、って言ってた。
だけど、わたしがいきなり長距離を高速つかって乗りまわしたせいか、いきなりきれいだったゴムにものすごいヒビがはいってびっくりした。
ゴムの経年劣化って、こんなふうになるんだー、ってそれで知った。
こんなおそろしいヒビがはいるまでタイヤをつかったことなんてなかったから。

なんどかのロングドライブのあと、コンビニでコーヒー買って乗り込もうとしたとき、なんとなくタイヤに目がいって。
あれれー?
こんなすごいヒビ割れ、いつからできたのー、ってびっくりしたの。
このまま走ったらおもいっきりバーストしそうだよねー、って、とりあえずヒビがすごいタイヤだけコンビニの駐車場でじぶんでスペアに交換しちゃって(見てたスポーツ車のおじさんが手伝ってくれたけど)、ほかのタイヤもヒビが少し出てたから、その帰りは高速乗るのやめて一般道で慎重に帰った。

「すごいなー。じぶんでやれちゃうのー?」って笑いながらタイヤ交換を手伝ってくれたそのおじさんは、ほかのタイヤも見てくれて、これぐらいなら高速でバカみたいに100キロ以上飛ばさないかぎりはまだ大丈夫だよ、って言ってくれた。
わたしは高速でも法定速度をちゃんと守るけど、万が一のとき、高速で故障停車するのがこわくて一般道で帰ったの。

それで、次の日にすぐ車屋のおじさんにタイヤの交換をおねがいして。
国産メーカーでできるだけ安く手にいれたものを、これも無料で交換してくれる、って言ってくれたから、タイヤだけはじぶんで払うから、って、某メーカーの純正のよりいいタイプのを頼んだ。
一度つかってみたいなー、っておもいながら、でもわたしには高いから、いつもそれより下のランクのつかってたんだよね。
そしたら、おじさんはその差額だけの負担でいいから、って、わたしの希望のタイヤをつけてくれた。

タイヤがいいと、ぜんぜん運転しててちがう、っていうのを、これで体験した。
ひゃー、すごいよー、どんな冠水道路でも(この夏はバカみたいな豪雨で走行中の道路がいっしゅんで冠水するの、しょっちゅう)、どんなゲリラ豪雨でも、晴れて乾いた路面と変わりなくちゃんと停まる。
なんどかそれを確認すると、ブレーキングに過剰な不安がなくなって、どんな劣悪な路面になっても落ち着いて運転できる。

フツーに運転してても、カーブとかも走行感がすごいちがう。
F1とかモータースポーツでタイヤの性能の影響がどうの、とか言ってて、わたしはよくわかんないまま「そーいうもんなんだー」ってぼんやりおもってただけだけど。
そういうもんなんだねー、っていうのを体感として知れたのがたのしい。

お金があると、車はもっとたのしめるんだね。
車に全財産つぎこむような車好きの人のきもち、なんかわかった。

わたしはそこまでお金稼げないし、稼いだお金をぜんぶ車に注ぐのはムリだけど。
お金をかけただけ車がたのしくなる、っていう感覚を少しでも知るのはうれしい。
そのお金は、じぶんが稼いだものだと、このうれしさは「自力」なんだ、って、もっとたのしいきぶんになる。

ここのところ、わたしは一生懸命働いて、辞めようとおもってたバイトだって、お金を稼げるときに稼いでおこうってかんがえて、まだつづけるつもりでいるし。
稼いだ分、独身だと税金がただすごいことになる。
だから、今年稼いだらまた来年も稼ぎつづけないと税金が払えなくなる、っていう悪循環みたいなことになるけど。

税金が高くなるからあんまり稼ぎたくないなー、っておもった時期もあった。
でも、わたしはじぶんの健康寿命がそんなに長くないはずだから、働けるうちは一生懸命たくさん働いて、高い税金にほかの納税者といっしょになって堂々とぶーぶー文句垂れて、それで少しでも自由なお金をじぶんのたのしいことにつかって、カラダが自由に動かせる時間を満喫したい。

あと1年か2年ぐらいで、わたしは値段の高い投薬がはじまるはず。
これにはなんの医療助成制度もないから、お金のない人はここで治療を断念せざる得ないハードルのひとつめになる。
わたしはこのひとつめのハードルは、なんとか越えてみよう、っておもうから、いま、働けるうちはたのしく働くの。

なまけものなわたしが働く理由。
そんな歌を宇多田ヒカルさんが歌ってたけど。

このまえ読んだ、ある作家さんのエッセイみたいな本に。
小説を書く理由があった。
じぶんが生きた証を、じぶんの死後も残したいから、って。

わたしは、そういうかんがえがまるでなくて。
じぶんの生きた痕跡を、じぶんの死後にはできればなんにも残さずにいたい。
それはまえから書いてきてるけど。
わたしは、じぶんの存在は、生きてるあいだのこの瞬間ごとに在るだけ、でいい。

いま、じぶんのたのしみのために書く。
それだけが、わたしの書く理由。
お仕事も、ブログも。

じぶんが死んだら自動的にネット上のすべてのアカウントが消失するシステムができればいいのにね。

お仕事は、好きなものばかり書いてるわけじゃないけど。
仕事をしてお金をもらう、そのことを、「生きてるいまこの一瞬」のたのしみに繋げれるから、わたしはたのしく働くことにした。
なまけもののわたしは、出来れば働きたくもないし、っておもってたけど。
働かないと食べていけない身分なんだから、義務をまっとうしてるだけ、っておもってたけど。

働いてお金を得れば、とりあえずは自立できる。
自立して生きれる、っていうのはなんて幸福だろう、っておもう。

わたしにはもう親もいらなくて、じぶんを養ってくれるだれかも必要なくて。
お父さんからもらった車をじぶんでお金かけてだいじに乗ってきたけど。
こんどの車は、さいしょからじぶんで買ったの。
それがうれしい。
この幸福はすべてわたしのもの、だから。

この幸福は、じぶんが働いていないと得れない。
働けることに、感謝する。
だれに感謝するのかわかんないけど、神さまとかそういうものかもしれないし、そういうもんじゃなくて、感謝する対象なんて特定する必要もないかもしれないし、だけど、仕事をしようとおもうきもちが維持されて、それが実行できる肉体がじぶんにはまだある、っていうことが、なんか無性にしあわせにおもう。


posted by ぴの at 19:10| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月09日

舌打ちと座敷童とオネショ

このまえ、友だちとみんなで飲み会やって、いろいろおしゃべりしてたのしかった。


そのときに出た話題のひとつが、なんかおもしろかったから(わたし的に)、ブログに書いちゃう。

アニちゃんが、コンビニで買い物したとき、オトコの店員さんに舌打ちされたんだって。

いろいろ買ったから、買うものを探してるとき、いちどレジの前を通ったら、そのときに店員がレジで待ってて。
それなのに、アニちゃんはまだ買い物してたから、レジからすーっと離れて、それからほんとにレジに立ったときには店員さんはいなくて、「すみませーん」って声出したら、さっきのオトコの店員さんが裏から出てきて、「チッ」って舌打ちしてからレジをはじめたんだって。

「思いっきり舌打ちされたから、びっくりしたー」
って、アニちゃんは話してくれた。
それ聞いたみんなは、「えー、あり得ないー」って、怒った。
そのオトコの店員に。

マヨちゃんは、
「えー、ぜったいあり得ない。マヨだったら、ぜったい許さない」
って、ものすっごい怒ってた。
どんなふうに許さないのかっていうと。
じぶんが舌打ちされたら、2回舌打ちし返してやるんだって。
それで、相手が3回舌打ちしてきたら、こんどは4回舌打ちしてやるんだって。

「そんなやつにぜったい負けない」って威張ってた。
「でも、マヨ、凶悪な舌打ちできないんだよねー」って悩んでた。
「キョーアクな舌打ちってなにー」
って、ぜんいんで突っ込んだら。

舌打ちの音のすごさ、だって。
すごい音たてて舌打ちができないんだって。

それで、みんなで凶悪な舌打ちの練習をした。
わたしがいちばん凶悪度が高かった('_')

ゴスちゃんは、一回ぐらいならいちいち怒らない、って冷静に言ってた。
また行ったときにも舌打ちされたら、本部に苦情入れるって。
接客業として、ぜったいあり得ない態度だから、って。

こういう苦情は、お店のためになるんだから、ちゃんと入れたほうがいいんだよ、ってゴスちゃん。
それは、わたしも同意するー、っておもった。

店員サイドに立ったじぶんのことかんがえても、接客態度に問題があったら、ちゃんと苦情入れられたほうが自覚して改善できる機会になるからねー。

ほかの友だちは、口内炎があったのかもー、って言って。
口内炎があると舌で触っちゃうじゃん、って言うから、みんな、口内炎があることにして触ろうとした舌で音が立つか、実験した。

それもあるかもねー、っていう結果になった。

「店員」をやってるわたしの意見も聞かれたから。
舌打ちなんてぜったいしちゃダメなんだけど、しちゃった気持ちはわかるかもー、って言った。
ちがう作業してるとき、レジの近くにお客が来たら、作業の手をとめてレジに走る。
そのお客が、まだレジ精算するつもりじゃなくて、またちがう場所に離れていっちゃうと、「なーんだ」っておもう。
ものすごい忙しいときに、「レジだとおもったら、レジじゃなかったー」っていうお客がつづくと、いちいちレジに駆けつけるたびに、「なーんだ」がすこしずつ「イラッ」っていう感情になるときがある。
お客さんがわるいんじゃないんだけどねー。

わたしも、普段ならそれぐらいではべつにイライラまではしないけど。
ひとりだけ、苦手なお客さんがいて。
その人は、いつも、なんどもなんどもレジのまえまで来て、店員がレジに駆けつけるとレジから離れる、っていうのを繰りかえすのがパターンになってて。
わざとなのかなー、っていうぐらいにわざとらしく、ほんとにレジに立ったような体勢になって、店員が来てからふらーっと離れて、またレジのまえに立って、店員が駆けつけるとふらーっと離れる、っていうのを、毎回買い物のたびになんども繰りかえすの。

その人がいつも来る時間が、たまたま納品でいちばーんいそがしい時間帯だから、なんども駆けつける無駄足って、困っちゃうんだよね。
でも、それだけならべつに仕方ない、っておもえるけど。
ほんとにレジに立つときは、店員が駆けつけるまえに、「おい!レジ!レジにだれもいないのか!」って怒鳴るの。
慌てて駆けつけると、「遅い!客がレジにいるのがわかんないのか!」って怒るの。

だからって、その人が来店してからレジ精算に来るまで30分以上かかるから(そのあいだになんどもレジのまえで立ち止まるのです)、さいしょからずーっとレジで待ってるとなーんにも作業できなくなっちゃう。

どう急いで駆けつけても、この人はいつもレジに店員がいないことに怒るから、「なんども駆けつけたってレジじゃないくせに、ほんとのレジのときにはものすごい怒るの、やめてくれないかなー」って、こっちもイヤなきぶんになってる。
舌打ちなんてわたしはぜったいしないけど、こういう場合は舌打ちしたくなる店員の気持ちも「わかる」。

もしかしたら、アニちゃんに舌打ちした店員も、そのまえからなんども「レジだとおもったらレジじゃなかったー」っていうお客がつづいてたせいかもねー、って言った。

それでも、舌打ちなんてしちゃダメだから、苦情入れるのは間違ってないとおもうし。

そしたら、アニちゃんは、
「うん、舌打ちされた原因、わたしかもねー」
って言った。

「えー、それって逆ギレじゃん。お客がいつレジに行くかはお客の自由じゃん」
って、ほかの友だちたちは、アニちゃんはぜんぜんわるくない、って怒った。

そしたら、アニちゃん。
「ちがうよー。そうじゃなくて。わたし見て、あの店員、あ、座敷童、っておもったのかも。もしかしてちいさいとき、お祖母ちゃんちとかイナカに泊まりに行って座敷童見たことある人なのかも。そのとき、座敷童が怖くて、トイレに行きたいのに行けなくてオネショしちゃったトラウマをおもい出して、あのときの座敷童〜〜、って舌打ちしたのかもー」
って、真顔で言った。

アニちゃんは小柄で童顔っぽくて、ものすごい可愛いから、職場のおじさんたちに「座敷童」って言われて(悪口ではない)、いろいろいじられてる話をしてたからねー。

そしたら、マヨちゃんが、
「えー、それでもあり得ないー。そのときの座敷童とアニはちがう座敷童じゃん。八つ当たりじゃん」
って、また怒った。

アニちゃんは「座敷童」で決定してた。



「店員の舌打ち」に対するとらえ方が、みんなバラバラすぎて、それがわたしにはおもしろかった。
その店員さんに、舌打ちしたほんとの理由、おしえてもらいたい。




posted by ぴの at 22:31| オーランド ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする