2017年04月17日

桜ひらひら朧月ひたひた音なき春の音を聴く夜更け

桜がまだ持ってる。
ことしの桜は、おなじ地域でも咲き方がバラバラで、早いのはもうかんぜんに葉っぱだけの新緑の木に変身してるけど、のんびりな木は出てきた葉っぱと一緒に咲きつづけてる花はまだまだきれい。

ゆうべは温暖だとおもう地域の場所の川の桜並木がまだ見事なのを見かけて、ぜんぜん儚くない桜もいいねー、っておもった。

うちの近くに森から離れてたった一本だけぽつんとある桜の木は、いつまでもぜんぜん咲かないから、「いつ咲くのかなー」って通るたびにちらちら見てた。
そしたら、いつのまに葉っぱが出てきて、葉っぱだけの木になって、桜の花は2〜3個だけ満開状態でついてた。
ものすごい暴風の日だったから、満開の花がいくつかまとまってる小枝(花茎?)が、ぱらぱらと地面に落ちてた。
風のせいで花が丸ごと飛ばされちゃったんだー、ってかなしくなってたら。
その次の日、風がなくなって暖かかったら、一日で木全体が花だらけになってた。

ひゃー、24時間も経たないうちにぜんぜん葉っぱしかなかった木がいきなり満開で、ものすごいびっくり。

そんなかんじで、ことしはヘンな気候のせいか、あちこちでイレギュラーな咲き方の桜をたのしめたねー。
散る時期がずれてるから、いろんなところが数日にわたって桜の絨毯になってて、桜が長持ちするとしあわせも長持ち。

花はなんでこんなに華やかで艶やかな姿をしてるんだろう。
いろんな色があって、カタチもいろいろで、こんなにたーくさんの花が咲かなければいけない理由ってなんだろ。

星に生命が生まれたとしても、こんなにたーくさんの種類になる必要もない気がするけど、植物も生物もわけわかんないぐらいに種類が膨大。
ニンゲンだって、いろんな人種がいて、こんなにたくさんの種類で共存する自然の摂理を、生物学的なことには無知なわたしはフシギにおもう。

いろいろとつらいことが重なってるいま、春ギライのわたしはいろんな花に癒されてる。



このまえ、用事で出かけて、通りかかったパスタ専門店でランチしたとき。(ピークタイムはすぎてた)
たった1時間もいないあいだに、いろいろおもしろいことがあった。

ひとりで食べてたら、フロアにいた店員さんがいきなり「シメサバでーす」って声あげて。
「え?シメサバ?パスタ屋さんにシメサバなんてあるの?」って、ちょっとフシギにおもった。
そしたら、また少し経って、「シメサバでーす」って言うから。
まただれかが「シメサバ」頼んでるんだ、って、メニュー開いて「シメサバ」が使われてるお料理を探しちゃった。
マリネになってるサラダみたいなのか、和風のシメサバパスタみたいなのがあるのかなー、って。
でも、鯖なんて使われてるメニューはひとつもなくて、「???」っておもってたら、また店員さんが「シメサバでーす」って言うから、そっち見たら。

「おひとりさま」のお客さんを案内してるとこだった。
あ、「一名さまでーす」って言ってるのが、「シメサバでーす」に聞こえたのかー、って気づいた。

マンガの『あたしンち』でも、みかんのお母さんが美容院に行ったら、店員さんが「しあわせ?」っていきなり言うから、びっくりして「しあわせです」ってこたえようとして。
でも、その店員さん、「いらっしゃいませー」って言ってるだけだったのね。
それ読んだとき、「いらっしゃいませー」が「しあわせー」に聞こえるかなー、っておもったけど、わたし、実際にその体験した。
近所のセブンイレブンに行ったとき、いつも口先だけ愛想がいい(そのくせ感じ悪い)おばさんの店員が、「しあわせー?」ってわたしがはいったタイミングで叫んでたの。
あ、ほんとに「しあわせ」って聞こえるー、って可笑しくなった。

「一名さまでーす」も、「シメサバでーす」に聞こえるよ!
どこかで体験してみてみて。

それから。
そこで食べたあと、帰るまえにトイレにはいった。
そこは女性用と男性用がひとつずつしかなくて、ドアにそれぞれピンクの人型とブルーの人型のプレートがついてる。
ピンク側でわたしはおしっこしてたら、ドアが乱暴にドンドン叩かれて、「はいってますよー」の返答するヒマもないうちにガチャガチャ開けられようとした。
鍵かかってると、外からちゃんと赤く見えるからわかるのに。

なんで中の人を確かめないうちに開けようとする人がいるんだろう、って、いつもドアをガチャガチャする人にうんざりする。

でも、そのときは開かなかったから、そこで待たれちゃうかなー、っておもった。
わたし、トイレのすぐ目の前で待たれるのもキライ。
じぶんが待つときは、席に戻るか、離れたとこで待つようにしてるし。

そしたら、ドアを乱暴にガチャガチャした人は、すぐに隣の男性用にはいってった。
えー、その人の性別はなにー、って、ものすごいナゾになった。
隣は男女兼用じゃないからねー。
わたしが先に出て、隣から出てくる人をなにげに席でちらちら待ってた。
そしたら、出てきたのは50代〜60代ぐらいのおばさんだった。

なんでー。
おばさんはー。
男性用にー。
ためらいなくはいれるのー。

高速のPAや、ものすごい行列ができてたTDLとかでも、すたすた男性用にはいってっちゃう「おばさんたち」って見かけたことなんどもあるけど。
中に男性がいてもはいってっちゃうんだよねー。

そのトイレ事件のあとで。
わたしがお会計でレジに行ったら、ひとりのおばあさんがお会計してた。
「ひとりずつで」って言ってたから、ほかのおばあさんたち(わりと高齢の女性数人のグループ。トイレのおばさんとは別)と一緒のレシートで個別会計をしたかったみたい。
その人がお会計してもらって、わたしがすぐ後ろに並んで。
そのときはほかの人たちはまだ席にいて、トイレに行く人もいたりして騒いでたけど。

わたしの番になったとき、「ちょっと!こっちが先よ!」って、席からぞろぞろレジに来て、わたしの前にはいりこんじゃった。
店員さんが、「こちらのお客さまがお先ですのでー。後ろにお並びくださいー」って言ってくれたけど、「あら。わたしたちのレシート(伝票のこと)はそこでしょ。こっちが先じゃない」っておばあさんたちは主張。
何人もいて、それぞれ個別会計するつもりで、わたしの先にいた人なんてものすごいモタモタお金だしてたから、どれだけ時間かかるんだろー、ってわたし、うんざりした。

店員さんは「個別会計でしたら、こちらのお客さまが先になりますので、それぞれ後ろに順番にお並びください」って、また言ってくれた。
「え?そうなの?」
「おかしいんじゃない?レシートはもう出してるんだから」
「わたしたち、その人(さいしょにお会計してた人)と一緒なのよ」
「まとめてやって頂戴よ」
って、みんなでガヤガヤ騒いで、レジの前からどかないから。
店員さんがものすごい困った顔して、「では、残りのお会計は……」って、ぜんぶまとめた金額を口にした。

そしたら、「ひとりずつにして頂戴よ」って個別会計を言いだして。
「そうよ、そうよ。じぶんが食べた分じゃないと、わかんなくなるわ」って、みんなまた騒いで。
「まとめてやって」って言ったばかりじゃんー、ずるいー、って、わたし、うんざりしてた。

「おひとりさまずつでしたら、やはり、そちらのお客さまがみなさんより先にお並びだったので」って、店員さんはまた言ってくれた。
「あら。そうなの。先にやりたいの。じゃあ、いいわ」
「急いでるんでしょ?じゃあ、譲るわよ」
「若い子はこういうレジ、待てないもんねー」
って、なんかものすごいイヤミを浴びせられて、わたしの後ろに並び直した。

わたし、ここでお礼を言うべき?
って、すごい迷いながら、わたしも困った顔してお財布取りだしたら。
「譲ってあげたんだから、あなた、お礼ぐらいは言わないと。それがマナーよ」って、上品そうなおばあさんに優しく腕を叩かれて、諭された。

え、わたしが譲ってもらったのー?
って、ものすごいモヤモヤして、「わたしが先に並んでたんです」って言い返しちゃった。
店員さんも、おばあさんたちにうんざりしてたみたいで、「こちらのお客さまが順番先なんですよー」って言ってくれた。
「そう。じゃあいいわ。若い人は仕方ないものね」って、上品そうなおばあさんはひきさがった。

お会計をしてもらって出ていくとき、そこにいたおばあさんたちが、「うちの嫁も……」って、いろいろ悪口言ってて、それとわたしを重ねてた。

出てから。
ものすごいモヤモヤが残って。

わたしは、「折れて」、お礼を言って先にお会計するのがよかったのか。
それとも、あの人たちに先にやらせてあげればよかったのか。

「ステキなオトナ」としては、どれが正解だったのー、って、「オトナ検定」の試験問題に悩むきぶん。

わたしは、「若い子はこういうレジ、待てないもんねー」っていうイヤミにカチンときちゃったんだよね。
待てないのはそっちなのに、わたしがここで譲れば、「順番を待てないおバカな若者が年配の人に怒られてそれに渋々従った」みたいな図式になるのが、くやしかったんだとおもう。

でも、わたしが「わたしのほうが順番先なのです」っていうただしさを示したとしても(店員さんもいっしょに)、どうやってもあの人たちには「そうか」って気づいてもらえない。
絶対的にあっちには、わたしが順番を抜こうとしてる、ってしか解釈できてないんだから、わたしがどんなにじぶんのただしさを主張しても、なんの意味もない。

わたしの理想は、「ちがいますよ。わたしが先です。でも、あなたたちに譲りますよ」ってことを上手に伝えれるオトナ。

海外の小説読むと、「自己主張」と「利他主義」を同時に扱えるオトナのキャラクターがたーくさん出てくる。
それに、わたしはすごい憧れる。
でも、そうなるには、わたしにはものすごい難しい。

いろいろ似たようなモヤモヤ事件があるたびに、どういうオトナであるべきだったか、って、じぶんの態度にものすごい悩みながらも、いまだ正解が見つけれてない。
このパスタ屋さんの一件では、相手のイヤミにカチンときてくやしくなった、ってとこが、じぶんの小児的な過ち。
っていうのは、わかるんだけどねー。

やれやれ。(春樹おぢさん風)

たった一時間弱のランチタイムで、「口先接客の空耳事件」と「性別不明トイレ事件」と「順番の正義事件」とたて続けに経験して、なんか人生の深淵をいろいろ覗きこんだきぶんになった。
そういうのは、おもしろいとおもうけど。

きのうの草なぎさんと香取さんのラジオで、草なぎさんが丁度そんな話してた。
どこに行くにも耳栓必須、なんだって。
人が多いとことかだと、人の雑談が耳に入るのがイヤなんだって。
耳に入れば、それでじぶんの思考が生じてきちゃうからって。
人のいろんな話に、じぶんがいろいろかんがえだすのがめんどくさくて、それを防ぐために人の雑談をシャットアウトする耳栓がぜったい必要なんだって。
見ザル聞かザル、がいちばんいい、って。

人の雑談からいろいろかんがえるのがいろんなアイデアのヒントになる、って、創作系の人なんかは言うけど。
かんがえてしまうことに疲れる人、もいて、当然だよねー、っておもった。
なんにもかんがえないでパスタ食べて、トイレでおしっこして、それでお金払って、店を出て歩きだして「あー、おいしかった」って数分だけ余韻があって、それでおしまい、っていう人生のほうが、ほかにかんがえなくちゃいけない大切なことをかんがえる脳の体力が残るよねー、ともおもった。



家族と暮らしてたとき、シャンプーとかトイレットペーパーとか、さいごまで使い切った人が「あたらしいのを補充」しないことに、いつもぷんぷんしてた。

ひとり暮らしするようになったら、そういうぷんぷんから解放される、っておもったけど。

トイレはいったとき、ペーパーのカバーあげたら空のペーパーの芯がついてるだけ、とかわりとしょっちゅう。
使い切ったら、あたらしいペーパーつけとけー、って、このまえトイレはいったじぶんにぷんぷん。

お風呂でも、時間なくて急いでシャワーあびたいのに、シャンプーが空になってたとき。
使い切ったら、その場で詰め替え用補充しとけー、って、このまえシャンプーしたじぶんに激怒する。

ぷんぷんストレスには、家族は関係なかった。
やれやれ。(春樹おぢさん風)

(いまもトイレ行ったら、ペーパーホルダーに芯だけついてた。ぷんぷん)



またラジオの話。
ラジオで聞いた話にいろいろモヤモヤした話。

ゆうべは村山由佳さんの番だったんだけど。
女性リスナーからのメールに、わたし、ちょっときぶんが荒れた。

再婚した人で、それまでは子どもの学校行事には別れた夫も来てたけど、これからは「あたらしいお父さん」との暮らしをだいじにするために、もう別れた夫には来てもらわないほうがいいのかも、っていう悩み。
これの村山さんの応えは、さすが、だった。

そのリスナーの人の気持ちもたてながら、最終的には、子どもの気持ちをいちばん大切に、って言って。
子どもはどういう望みをもってるか、それを聞いてみて、って。

親の離婚と再婚、って、「家族の問題」であるようだけど、結局はその当事者の夫と妻の関係にすぎないよね。
子どもには決定権が与えられてないんだから。

子どもにとっては、「お父さん」「お母さん」は、生まれてからずっと「お父さん」「お母さん」っておもってた人だけ。
「あたらしいお父さん」なんて、再婚する母親が勝手につけた肩書き。

「あたらしいお父さん」も「古いお父さん」もいないんだよ、子どもには。
「お父さん」は、物心ついたときから「お父さん」っておもってた人だけ。

オトナな子どもは、父親や母親が取り替えた「あたらしいお母さん」や「あたらしいお父さん」を、「あたらしい親」と思い込もうとする。
でも、それを親側から押しつける感覚に、わたしはいつもモヤモヤをかんじてた。

子どもの学校行事に、離婚して別居するようになった「お父さん」が来てくれてたなら。
そこで、子どもとお父さんの関係は、親の離婚に関係なく、良好につづいてた、ってことだよね。
なんで、子どもの行事に、子どもにとって赤の他人のオトコが「お父さん」の代わりに来なくちゃいけないの?

そのメールには、別れた夫といまの夫といっしょにお昼を食べるのもどうかとおもう、みたいなことが書かれてたけど。
ふたりの「夫」が同席することにモヤモヤするのは、そのリスナー本人の感情にすぎないじゃん。
じぶんの「まえのオトコ」と「いまのオトコ」が揃った場に「オトコを取り替えたオンナ」のじぶんが居づらいだけ。

子どもに「あたらしいお父さん」になじんでもらいたい気持ちもわかるけど、ほんとのお父さんと逢える機会を奪ってしまっていいとはぜんぜんおもわない。

書くお仕事で知り合った、わたしと同世代の男子から、いろいろそんな話も聞いてた。
小学生のころにお父さんと離婚して、母子家庭で育って。
お母さんはものすごい苦労して働いてくれたのを、その男子もわかってて。
その彼が大学受験期に、お母さんは再婚したんだって。
相手の男性はお金に余裕がある人で、狭い母子家庭のアパート暮らしから、広い一軒家に引っ越すことになって。
その彼とお姉さんの父親代わりになろうとしてくれる優しい人で、大学も私立でもどこでもちゃんと行かせてくれる、って話だったんだって。
18歳になったら、免許取らせてくれて、車も買ってくれたんだって。

でも、彼は「あたらしいお父さん」のお金でじぶんのめんどうみてもらうのがイヤで、大学受験をやめて、高卒で寮があるとこに就職して、ひとり暮らしをはじめたの。
それで、作家になりたくて、わたしと同業者のあつまりに顔だすようになって、わたしとも知り合ったんだけど。

お姉さんは、個室もちゃんともらえた家で「他人のおぢさん」と暮らすのがイヤで、やっぱり寮があるとこに転職してすぐに家を出ちゃったんだって。

「いい人」なんだけど、けっしてじぶんたちの「父親」ではない、親代わりにもなってほしくない、って、その彼は言ってた。
苦労した母親にはしあわせになってほしいから、再婚は反対しないんだって。
でも、そのオトコとじぶんたち子どもは「親子」にも「家族」にもならないって。
お姉さんやじぶんには、お母さんの再婚した相手は赤の他人にすぎないオトコ、だって。

彼はその再婚相手の人のことを「ヒト(他人、の意)」って言うの。
買ってもらった車は結局家に置いて出てきたらしいけど、そのときの車の話をしたときとか。
「ヒトの車」って言い方するのね。
免許取ってすぐ、ヒトの車でちょっとドライブしたけど。みたいに。

オトコとオンナ、が、愛し合って夫婦になるのは自由。
だけど、子どもは、血の繋がらない他人を、「親」とおもえるほうが稀じゃないのかなー、っておもう。

夫婦はもともと他人だから、いくらでも相手を交換できる。
でも、親子は、交換きかない関係だからねー。
こんな親、とおもっても、ずっと死ぬまで親子。
愛してる親、は、別々に暮らしてたって、死別したって、いつまでも「代替できない親」。

親は再婚したなら、その相手は「あたらしいお母さん」「あたらしいお父さん」じゃなくて、「あたらしい家族」として、「子どもの家族」に加えていくしかないじゃん。

子どもの行事には、子どものほんとの親が来ていいとおもうし、「あたらしい配偶者」のほうが遠慮するとか、別れた元配偶者の人と「オトナのつきあい」をするのが、「オトナ」じゃないの、っておもう。

じぶんの親が離婚するだけで、子どもは傷つく。
再婚も、すごい傷つくとおもう。
わたしは、お父さんに「お母さん以外のオンナ」がいるのを知るたびに、お父さんがとられちゃったきぶんになってかなしかった。
お父さんはそっちを選んだんだ、って、傷ついた。

お父さんが他所の女性とのあいだに子どもをつくっても(わたしは異父兄弟・姉妹がものすごいいる!)、じぶんと半分血が繋がってる「きょうだい」なんておもわない。
赤の他人、でしかない。
「おまえのきょうだいだよ」なんて、関係性を押し付けられたくない。

親が勝手に築く「あたらしい家族の関係性」に、子どもも巻き込まないでほしいよねー、っておもう。

お母さんはお父さんと別居してから、ぜんぜんほかの人と恋愛しなかったとはおもえないけど。
その気配すら、わたしや弟には感じさせなかった。
恋愛してもいい、とおもうけど、お母さんがもし「カレシ」をわたしたちに紹介したら、わたしは傷つくか、不快だったとおもう。
それをしなかったお母さんに、ものすごい感謝してる。

もしお父さんとずっと前に離婚して、お母さんが再婚したとしたら、それもわたしはイヤだったとおもう。
やっぱり、じぶんにとって「他人のおぢさん」が家にはいりこんでくるのは、生理的にものすごいイヤだよ。
優しく父親面されても困るし、なんかいろいろイヤな態度を出されたら、もっとイヤになるし。
でも、親が引き入れた他人、を、子どもは排除できない。

親の再婚、って、子どもにとっては、ものすごい重たいものだとおもう。
子どもが自立する力を持つまでは、子どもの気持ちを優先させて、って、親権をとった親にはおもう。

親にもしあわせになる権利はもちろんあるけど、子どもをじぶんの意思でもった時点で、子どもをしあわせにする責任、もあるんだから。
親が離婚したからって、子どもは「片親」になるわけじゃない。
子どもにとって、「両親」は、家族の形態がどんなふうに代わっても、「存在」はするんだから。
親が好きになった他人を、子どもも好きになれるとは限らない。
それを意識して。
ともおもっちゃう。






ロードの新曲、カッコイイ。

わたしも「Green Light」が必要な行先がある。




posted by ぴの at 14:09| オーランド ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月01日

サクラマダ

春がホンキだすはず。
っておもったら、予想外にさむい一週間だった。

お店のコンピュータに出てくる地元の天気予報ではもっと気温が高いはずだったし、東京のラジオでも春本番の陽気みたいってはしゃいでたけど、実際はうちのほうは「さむいー。さむいー」って冬の上着が手放せなかった。
もう売れないよねー、って、廃棄覚悟で仕込んでた肉まんがバカスカ売れた。

この寒さのおかげでぜんぜん桜の開花が進んでない。
こんどの週末はほんとに気温が高くなるみたいだから、そのころがお花見日和かな。

きょうはエイプリルフール。
去年も一昨年もこの日はピグのエイプリルフールイベントをたのしんでたけど、たぶんことしはこのままログインもしないとおもう。
コツコツ課金してたのが1万円ぐらい残ってるんだよねー。
だから、またライフのイベントを課金してやっちゃう、っておもうけど、その時間がぜんぜん見つけれない。

リアル1万円があったらー。
ってかんがえると、ほんと、わたしみたいなギリギリびんぼー人には返金なしの先払い的なシステムって合わない。
電子マネーも一枚でどこででもつかえるわけじゃないから、けっきょく現金でもってるのがいちばん、ってなっちゃう。
電子マネーのいいとこは、いろいろ特典があるとこかな。
コンビニ系の電子マネーを2種類つかってるけど、どっちもコーヒーのタダ券がもらえたりして、そういうお得感は味わってる。



このまえ、計画的万引き、みたいなのにうっかりひっかかった。
ちゃんと気をつけていれば防げたかもしれないけど、ふたりでレジ応対してたのに、ふたりともその場では騙されちゃって。

その人がお店を出ようとしたときに、わたし、「あ!」って、いちぶの商品の支払いがまだなのにき気づいて(いろいろレジ精算を別会計とかにしてめんどくさくさせてたのね)、それが計画的だとも気づいたから、一瞬でお店から飛び出して追いかけた。
あっちも逃げる気満々で、自転車に乗って猛ダッシュ。
それをわたしも必死で「お会計がまだのものがありますー」って叫びながら追いかけた。

もう少しで自転車のうしろを掴めるぐらいまで追いついたけど、逃げられちゃった。

「やられたー」
って、くやしがってお店に戻ったら、いっしょに組んでたバイト男子が「追いかけて捕まえる気だったの?」ってびっくりしてた。
相手はけっこうな巨漢の男性。(巨漢ってコトバじたいが男性限定?)
追いついたところで、逃げる気満々なら、わたしには力ずくではどうすることもできない。
でも、そんなことぜんぜんかんがえてないで追いかけてたからねー。
 
わざとやった、って気づいたから、あたまに血が昇ってた。
冷静だったら追いかけたりはしないで、その場で警察に通報しておしまいにしたのに。
ほんと、追いついたらどうしてたんだろ、わたし。

そのあとは冷静になって、まえにも見かけたお客さんなのを思い出して、その日のそのときのレジ記録をプリントアウトして、店長にカメラ確認を報告。

それとは別件で、またいろいろあった。
お客さんがレジ応対でものすごいクレームつけてきて。
「深夜の女性のレジ」が毎回態度がひどい、って言ってものすごい怒ってきたの。
いま、深夜帯の女性はわたししかいないからねー。(ほかの女性は辞めちゃってる)

「え?わたし?」
ってびっくりして、店長も「え?うちのぴのが?」ってびっくりしたみたい。
接客でそんなひどい態度するはずはないから、っていうぐらいの信頼は、わたしあるから。

でも、そのお客さんは何日の何時ごろ、っていうのははっきりしないんだけど、「数回たてつづけに」ものすごい応対されたんだって。
そのクレームを店長に告げてるとき、わたし出勤してきたから、そこに呼ばれた。

わたしはぜんぜん応対したおぼえがないお客だったから、じぶんがほんとに応対したのかそのお客に確かめちゃった。
そしたら、「うーん。でもたしかー、夜中のオンナの人だからー」って言うから、「夜中の女性はわたししかいないんですよねー」って言ったら、「じゃあ、あなただよ。あなたにひどいことされたからね」って睨んで怒るの。
でも、わたし、ぜーんぜんそんな記憶ないから、(まして「たてつづけ」だったらまったく思いあたらないはずがないし)、「だけど、わたし、お客さまのそのレジ応対したことはないとおもうんですよー」って言ったけど、「でも、あなただったとおもうよ。ああ、あなただよ、あなた」って言い切るの。

だから、店長も「ぴのさんの思い違いってのもあるから」ってわたしを怒って、そのお客さんに謝ってた。
具体的にどんなひどい応対だったかは話してくれてたんだけど、そういうレジの応対じたいをわたし、深夜に受け付けたことなかったから、わたしは「?????」。

どうしても納得いかなくて、その人が帰ったあと、わたしが深夜帯にはいってる日にあの人が来店したことはいちどもない、って店長に言ったの。
でも、「若いオンナの人、って言ってたから、ぴのさんしかいないでしょ」って店長から記憶がないことまで怒られた。

そのお客さんはまたその後に来て、わたしを見つけるなり、「このまえのあなたの態度はほんとにひどいねー。こんどやったら、また店長に言うからねー」ってからんできたから、「お言葉ですが、人違いなさってるとおもうんですよー」って、わたしも言った。

そしたら、「あんただよ。ほら、あんた、このまえは後ろで髪をこーやって(上のほうで)縛ってただろ。髪型変えたからってしらばっくれるんじゃないよ」って、もっと怒られた。

それ、かんぜんにわたしじゃないし。
「わたし、このお店でいちども髪を縛ったことはないから、やっぱり人違いだとおもいます」って言ったら、ものすごい怒って帰ってった。

その後日に「このときだよ!」って、そのレジ応対のときのレシート持ってきた。
それ見たら、人違いどころか、お店違いだった。
「これ、うちのお店じゃないです」って言ったら、「え?」って戸惑って、「あ、ああ。あっちの店かー」って、思いだしたみたい。
うちで失礼なことしたわけじゃなかったからよかった、っておもったら、お客さんも「ごめんごめん」って笑ってくれた。

でも、それで帰ろうとして、そのお客さんが、「でもさー。あんたのとこ、あっちの店とそっくりだろ。それがわるい。店がちがうなら、あっちの店とそっくりにするんじゃないよ。こっちはわるくないよ」って、また怒り直して帰ってった。

おなじ系列だからねー。
看板とかお店の商品とかいろいろぜんぶおなじだもんねー。
うちが真似したわけじゃないからねー。

いろんなクレームがあるねー。
って、おもった('_')



この春はJ-WAVEがものすごい変わった。
いろーんな番組が終わった。
佐藤オオキさんとクリス智子さんの番組も終了。

えーーーーーーー(;_;)

って、ものすごい泣いたら、4月からふたりは別々の番組をもつことになってた♡

佐藤オオキさんは、ショーンKさんの後の枠!
ショーンKさんが追放されちゃってから、あの知的でステキな番組をぜんぜん埋めることができずにいたけど(その後の番組はカラーがちがいすぎて、おなじようなたのしみ方はできなかったんだよね)、この時間帯にまたステキな番組がはじまるのはうれしい。
その担当に佐藤オオキさん、なんて、サイコー。
(ショーンKさんにはいまもぜったい戻ってきてほしいとおもってるけど)

その番組のあとにBOOK BARが移動になってて、土曜日はステキな日になった。

なのにー。
わたしー。
土曜の夜、って、ラジオを聞けないときのほうが多いんだよねー。
(;_;)

平日はジャムの後の番組をいろいろ変えてほしかったのに、それは継続みたい。
あの番組、評判がいいとはおもわないのに、それでも継続するのって、ラジオ局的大人の事情なのかなー。
わたしは平日の夜はJ-WAVE離れ。で、ラジオ難民。

車ではCD聞くことが増えた。



Early Times - LOVE PSYCHEDELICO
Early Times - LOVE PSYCHEDELICO

お母さんのCD。
さいきん、車でCDまるまる聞くようになってハマッてる。

この中にはいってる『Last Smile』の歌詞は、わたしにはとても深い。
いろんな解釈ができるのかもしれないけど、わたしはこれ、自殺した人の歌、だとおもってて。

Last Smile歌詞:
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=65921

このまえ、わたしはゾンビの夢をみた。
人とゾンビの話したあとだったから。
夜に帰宅したじぶんの家で、なんかヘンな違和感があって。
言いようのないこわさをかんじながら、わたし、ベランダのある窓を開けたんだよね。
そしたら、ベランダにたーくさんのゾンビが群がってた。

ぎゃー、って逃げだそうとしたけど。
そこに、叔父さんも、いた。

ゾンビみたいな姿になってて、わたしはそんな叔父さんがこわい、って一瞬おもったけど。
こわがることないじゃん、だって、叔父さんなんだし。
って、おもって。
それから、どんな姿でも叔父さんにまた会えたことがうれしくなって、わたし、泣きながら叔父さんを家にいれてた。

死んじゃった姿でもいいから、またいっしょにいれるのはうれしい、っておもったの。

そしたら、窓の外にいるたーくさんのゾンビだって、それぞれは、「死んだだれか」で、その人を愛してた人がそれぞれいたはず。
なんで人は死ぬと恐怖の存在にされちゃうんだろう、って、ヘンなきもちになった。

死者は敵ではないはずなのに、なんで死んだ人は生きてる人の敵になってしまうの?

人が死ぬとホラーになる、っていう感覚は、どこから来たんだろう。

きょう通った森の中に、お墓があるのを見つけた。
まだ下草が生えてないから奥まで見通せたんだけど。
下草が生える時期には傍の道からは見えないかなー、っていうぐらいの奥のほうに、いくつかのお墓がある墓地ができてた。
たぶん、その森の地主の家のお墓だとおもう。
うちのほうは農家なんかは畑に墓地をもってたりするし。

森の奥にある墓地、って、それだけでホラー的。
っておもいながら通ったけど。
その家の人たちには、その墓地がこわいはずはない。

わたしはお母さんのお墓がこわいなんてことないし。
まったくの他人が、まったくの他人の死者をこわがるだけで、近しい死者、っていうのは、ぜんぜんこわい存在でもないし。
亡霊でもいいから傍にいて、っておもうことだってあるよね。

わたしが小学生のときから知ってる叔父さんの友だちの人が、人は怨みより愛のほうが強いとおもうのに、怨みをもつ霊ばかりが出るのはなぜだろう、って話してたのを思いだす。
現世に執着が強く残るのは、怨みより愛のはずだって。
死んだら、怨んだ人のとこに化けてでるより、愛してた人のそばに現れていいはずだって。

叔父さんが死んだあと、わたしはなんども、叔父さんを見た。
「そこに立ってる」の。
死んでしまった人のように、無表情でなにも言わなかったけど。
わたしは、こわくなかった。
それより、ずっといつも現れて、っておもった。

あれは霊なんかじゃなくて、わたしの執着が生んだ幻覚だと、わたしの理性はそう解釈してる。
執着で「また会える」なら、いくらでも死んだ人に執着したいよ。

そんなふうに、執着はうまくコントロールなんてできないけど。

お母さんが、死んだ人が遺すものは「罪悪感」だ、って言ったことがある。
しあわせな死、というものを、かんがえる。
しあわせに死ぬことばかりでなく。
しあわせに死なせる、ということ、も。

死んだ人が遺すものは、いろんな「悔い」だ。
その「悔い」は、「愛」でもあるね。

死んだ人をこわがる、という、愛とは相反する感情は、なぜありがちなコンテンツになってるんだろう。



CDショップでこれを見つけて、買っちゃった。

A LONG VACATION - 大滝詠一
A LONG VACATION - 大滝詠一

ナイアガラフリークを自称するお父さんが持ってたから、わたしも子どものときから知ってる。
でも、アルバムぜんぶをおぼえてるわけじゃない。

さいきん、ラジオでときどき『君は天然色』がかかるようになって。
(昔の曲ほど公式動画があるといいのにね)

そのたびに「あ♡ いい曲♡」っておもって、音源が欲しかったの。
ラジオであるアーティストのあるクリスマスソングがかかって。(名称伏せるけど)
それがあんまり『君は天然色』にそっくりだからびっくりしたけど、そもそもそのタイトルじたいが大瀧詠一さんの有名曲のフレーズに酷似してるよね。

っておもうぐらいの知識がわたしにあったのは、お父さんのおかげだとおもう。

親からの文化的継承、って、いろいろおおきいよねー。
って、おなじく親のシュミをいろいろ受け継いでじぶんのシュミに溶け込ましてる友だちと、いつも言う。
(その友だちも、ブルーノ・マーズの新曲が「ミッキー・マニア」に聞こえる、って言ってたし。わたしたち、ディズニーフリークの親を持ったおかげ)

でも、もし、じぶんが子どもを持ったら。
その子には、じぶんのなにが引き継がれるんだろう。
人からの受け売りばかりなわたしは、じぶん自身が取りこんでじぶんのものにした文化なんて、なにかあるのかな。

話は買ったCDに戻すけど。

このジャケットは、ツイッターでも繋がっていただいてるイラストレーターの永井博さんのイラスト。
お父さんはこれのレコードを持ってるから、お父さんギャラリーにはこのレコードジャケットが飾られてて(お父さんは永井博さんを「神!」と崇めてる)、わたしはそれを見ながら育った。

あらためてこのCDをぜんぶ聞いたけど。
やっぱり『君は天然色』はすごいカッコイイ。
お父さんは『FUN×4』が大好き。
(これはビーチボーイズのFun Fun Funが元ネタ)

わたしはそれと『恋するカレン』がいい曲だよねー、っておもって聞いてた。
これは、失恋した男子の切ない歌。

……だとおもってたら、歌詞をちゃんと聞いてたら、これ、とんでもない男子の歌じゃんー。

恋するカレン歌詞:
http://www.kasi-time.com/item-12850.html

ふられちゃったぼくはじぶんの片想いをかなしがってたけど。
その後半。
彼女が選んだオトコには価値がないようなこと言って、そんなオトコをじぶんより選んだ彼女を、ふられたじぶんより哀しいオンナ、とか言ってるー。

やだ。
こんなオトコ。
こんな思考、こわい。

っていうか、じぶんのおもいどおりにならなかった途端、それまで崇めてたものを貶める思考は、
ぜ ん ぜ ん 愛 じ ゃ な い
から。

カレンさんはこんなオトコふって大正解!

なんて突っ込みいれながら聞いちゃった('_')

恋愛ってほんと、めんどくさい。
ふっただけで、いろいろ恨まれる。
それでも、じぶんが好きな相手以外からも広くモテたがる思考が、わたしにはわかんない。

好きな人の愛だけあれば充分じゃん。
好きでもない、それ以外の愛をどんなに集めたって、じぶんが愛するよろこび、は味わえない。

じぶんが愛してるなら、その相手がじぶんを愛さないからって、恨む必要もないじゃん。
ただ、かなしめばいいだけ。
逆恨みっていうのは、じぶんの欲望を満たしたかっただけ、ってこと。
じぶんの欲望が果たせなかったことがくやしいだけ。
そんなの、少しも愛じゃないじゃん。

欲望は、「愛」にくっついたりするものだけど、「愛」とはイコール、じゃないから。



ラジオで村山由佳さんが、「合格」のことを「桜咲く(サクラサク)」、「不合格」のことを「桜散る(サクラチル)」とも表現する話をしてた。

日本語って、そういう言い換えがいろいろステキ。


posted by ぴの at 21:11| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月27日

春がホンキだす週のはじまり

先週、桜がポップコーンがはじけだしたみたいに、何粒かだけ咲いてて。
いつのまに森の下生えは紫花菜が咲き乱れてて。

でも、この週末、真冬に戻った寒さで山のほうは大雪警報が出てて。
その冷たいみぞれ混じりの雨もあがって、太陽が出てくると、急に大気がぬくぬくした。

さあ、これから春本番。
冬はおしまい。

なんていう勢いで、たぶん、今週は桜が一斉に咲く。
桜並木はもう0.5分咲みたいな紅色のトンネルになってる。

日曜の大雪警報は、とうとう冬タイヤが役に立つ、っておもったけど、わたしがうろついてる範囲は数分だけ雪になったぐらいで、あとはみぞれか雨。
箱根は雪でターンパイクが通行止めになってたけどねー。
それに、真冬の上着がいるぐらいに冷え切ったけど。

こんな真冬並みの寒さも、この週末が最後なのかな。
4月になったらタイヤの交換しちゃおう、なんて予定を手帳に書きこんだ。

ゆうべは土砂降りの中、首都高を走った。
ものすごい強風で、とくに海にかかる橋の上は風速15メートルぐらいあると、車高が高くない車でも車体は地震みたいにゆらゆら揺れるし、突風みたいなのが吹いた途端、うっかりすると隣の車線に流されちゃう。
周りの車からしぶきあがるミストは、強風のせいで一面に散って、視界がぜんぜんダメになる。
それでも、そういう天候の首都高を走るのは好き。

いつもより慎重に走るから、神経が高揚するような気がするけど、わたしの場合、反対にものすごい精神状態が鎮静する。
落ち着いて走らなくちゃ、という意識が、こころを鎮めるみたい。
これがすごい心地いい。

三浦半島に住みたいなー。
なんて、さいきんおもう。
房総半島とどっちがいいかなー。
なんて、宝くじが当たったらっていう夢みたいに、いろいろたのしくかんがえる。

でも、いまの地元で、いろいろ仕事の基盤ができてるからねー。
書くお仕事とかコンビニバイトはどこででもできるけど、アクセ作りのほうは、自然と地元展開になってる。

手伝ってもらえる人、共同企画してる工房、原材料の仕入れ、それから販売。

あたらしくオープンする某カフェで、そこのいくつかのアイテムのデザインとかメニューのイラストとか、そこで売る雑貨とかに参加させてもらえることになった。
こういう仕事が舞い込んだのも「地元力」。

急速に地元でいろんな人たちと繋がる。
都会じゃないから、地元でバイトもやっていれば、地元をうろつくたびに誰かしら知ってる人と遭遇したりする。
それが煩わしい感覚はわたしにはあるんだけど、わたしは「ここの人」なんだなー、っておもう。
「みんな顔見知り」っていう村社会にしっかり染まってるかんじ。

友だちがひとりまたケッコンした。
「知らない街に住むの、ヤダ(;_;) ケッコンやめたい(;_;)」
って、新居を決めたときにいろいろ泣いてたけど。
その新居、って、どんな遠くかとおもったら、たった3駅離れたところ。
おなじ「市内」だし。

どれだけわたしたち、井の中に浸りきってるのー。
ってわらうぐらい、わたしの世界はいまだに「狭い」。

こんなこと書いたのは、このまえの記事にもらったはてなブックマークのコメント読んだから。
(ブクマありがとうございます)

さいしょのブログに書いた「あの記事」のリンクが貼られてて。
その記事をいまのわたしはどうおもうか、その頃から変わったか、っていう質問のコメントが添えられてた。

わたしの世界は、あれから広がったようで、でもけっきょくのところは、「わたしの拠点」は変わらなくて。
なにより、わたしは「友だち」が変わらない。
学生時代のころからの友だちが、いまもずっと。

いろいろ、じぶんの手の届かない「高い」世界の人たちとも知り合ったりしてるけど。
そこに、わたしが「移る」ことはできてない。
できてない、という「不可能の壁」があるわけではなくて。
わたしはそこに憧れはいまだってつよいけれど、じぶんがそこに属したいわけではないんだとおもう。

わたしがすごい好きだった人は、世界的にも「高い」世界(ヘンな日本語になった)に属する人だけど。
わたしに少しだけ関心もってくれたせいで、少しだけ接点ができて、じぶんはそこに「繋がった」きぶんになってたときもある。
その人といろんな冗談も言えるようになって、わたし、かんぜんに冗談だけど、その人の秘書になりたい、って言ったことあった。
わたしはその人が冗談で「いいよー」って言ってくれるぐらいに軽い話のつもりでいたけど、その人は冗談でもそうは言わなくて、否定的な反応をしてきた。

わたし、そのときに「壁」をものすごいかんじたんだよね。
どんなに関心もたれてフレンドリーに接してもらってても、「壁」はあるんだ、って。
冗談という魔法を使ってでも、一瞬たりとも「キミになんてムリ」っていう意識の壁を崩せないへだたりがあるんだって。

わたしは、高い世界の人に、その人の無自覚なレベルで見下されてる、ってことをかんじて。
こういうのが、昔でいえば、身分の差、とかなのかなー、っておもったけど。
あのときの、なんかわかんない静かなかなしみがいまも忘れられない。

それは、じぶんが属する世界の低さ、のせいなんかじゃなくて。
わたし自身が、その程度のニンゲン、にすぎない、っていうこと。

だから、わたし、背伸びすることをやめた。
大好きだった人から離れようとしたのは、背伸びしてた足の疲れを自覚したから。

背伸びしないでいれる世界、が、じぶんの世界。
少しでもラクして生きたいわたしは、ステキな人はステキだと崇めるけれど、じぶんがそのステキな人とおなじステージに立ちたいとはおもわない。

Travelling Without Moving

つまりこれ、ね。

じぶんは底辺の世界にいるまま、でも、いろんな世界をのぞきみる。
それでわかったつもりでいる世界を、すべて、とおもうわけでもない意識はもってて。
でも、実際にいちいち体感することがめんどくさいから、ここにいるまま生きる、ってことに、アン・シャーリー並みの想像力を養って、満足する。

あの記事を書いたときは、これはなんども言ってきたけど、ほんと、「無邪気」なままにあれを書いてしまったからねー。
いろいろ「釣り」とか言われたけど、インターネットで釣りをする、っていうことがぜんぜんわかってない、というか、そういう行為じたい理解がなかったから、じぶんがなにもかんがえずにはじめたブログでだらだら書いただけの記事に、執拗なおっさん説とか釣り説とかがまとわりついたことが、ほんとにびっくりしたし、ほんとにフシギだった。

なんて書くことすら、いろいろ悪意で解釈する人もいるから、ネットで「ほんとのほんと」を「ちゃんとほんと」のこととつたえることのむずかしさ、は、わたしもいろいろ学習した。

だからね。
たとえば、じぶんが「ほんとになにかしたい」とおもったときは、ネットで書くことで「ホンキ」を示すことより、リアルでやっちゃうのがいちばん、っていうことも、いまのわたしにはわかったこと。
リアルでやったことを「ほんとにやってますよ」ってネットで書くことの無意味さもわかったから、わたしはネットでじぶんのすべての理解を得たいと願うきもちがぜんぜんない。

インターネットでじぶんが書くコトバは、どんなふうに誤解されてもどんな悪意で解釈されても、それはぜんぜん構わない。
そうおもうようになったのは、じぶんでびっくりするほどバズっちゃった経験があるから。

そのせいでいろんな経験をして、わたしはブログをはじめたころのような無邪気な誠実さを捨てて、とてもじぶん勝手にネット遊びができるようになった。

喪失は、人の鈍感力を育てる。
生きてると、いろんなものを意図せず「得て」、それを失うことで、いろいろと傷つく。
じぶんが傷をどうにかしようと強くなるには、それを気にしなくなるこころの「膜」みたいなのが必要になる。

その「膜」は、つまりは「鈍感力」。

無邪気や誠実さをじぶんの中から失っていくかわりに、わたしはどんどん鈍感になる。
ネットでなんでも好きなこと書いてるようで、わたしは「書かない」ものをいくつもかかえる。
その加減がちゃんとできるようになっていくほど、「書かなくてもいい」鈍さを育ててく。

なーんて、いろいろごちゃごちゃここまで書いたけど。
いま、ふと、わかった。

ちがうよ、ぜんぶ。
そんな御託はどうでもいい。

わたしはあのブログをやったことで、じぶんの人生でとても重要な存在になる人と出逢った。
その人との関係が断たれてから、わたしはいろんなことが変わった。

それだけだ。
わたしの人生、それだけだ。

あと、お母さん。
お母さんが死んだこと。
それから、その人との関係が断たれたこと。

わたしはそれを、このアカウントで遊んでるあいだに、両方とも経験して。

そうやって、変わったわたし、が、いまのブログをやってる。

わたしというニンゲンは、むかしのままはもう機能してない。
あんなふうに、なにかしらの「世界」を語ろうとする意識もない。

あのころの「底辺」より、もっと低い、ほんとのクズになった。
そのことに、なんの内省もない。
めんどくさいもん。

あのころのじぶんは死んじゃったよ。
いまはゾンビがやってるブログ。
でも、あのころのじぶんより、ゾンビのほうがたのしいよ。

かなしみは消えないから、忘れたい。
でも、忘れることができないなら、忘れたふりをする。
じぶんの過去に鈍感になる。

なにかを機能させないじぶんを再生する。

春にあたらしく生まれたようにみえる、いろんな命は、過去の継承にすぎない。
なんにもあたらしくない季節に、過去にはもってたなにかを失うものほど、あたらしいのかもね。



posted by ぴの at 20:03| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする