2017年02月06日

空も地上もいろいろ炎上

隕石か火球?全国各地で明るい流れ星を観測 2/3 「謎の光る物体見た」


これ。
みたみたみた。
わたしも、みたよー。

って、まとめをみたけど。
わたしがみた日時もだいたいおなじだけど、西側でも南側でもない東の空だったし、斜めに落ちた緑の火の球じゃなくて、上から真下に向かってスーッとおちた、ものすごいおっきな白い星、だった。
一等星よりものすごいおっきい白く光る丸いもの。

ss170206a.png
こんなの。

ちがう流れ星が同時に発生してたのかなー('_')



去年やらなくちゃいけなかった「重大なこと」を、やっとぜんぶクリア。
わたしの2016年は2017年2月に終わった。
旧暦のお正月より、ぴの暦のお正月のほうが遅いのです。
わたしの新年、ほんとに明けたのでおめでとうございます(^_^)



某系列のコンビニで、風邪で欠勤したら、その日の分の時給が減っただけじゃなくて、ペナルティとしてもっとお金を減らされた、っていう問題でいろいろ騒動になってたね。
それで本部からのコメントを読んだけど。
ペナルティ自体が違法なのは当然として。
わたしがいちばん興味深くそのコメントを読んだのは、「バイトのシフトの代わりをみつけるのはオーナーの仕事」と本部が言い切ってたとこ。

これ、どの系列もおなじ見解なのか、知りたい。

わたしのバイト先も、いままでいくつか変わってきてるけど、どのお店も、「基本、シフト決定後の変更は、じぶんで代わりをみつけること」っていうルールになってた。
みつけれないと変更はダメ。
風邪で高熱だしてても、じぶんが代わりをみつけるのね。

基本、だから、店長によっては高校生とか学生にはそんなことさせてなかったりしてたけど、「オトナ」のバイトたちはだいたいじぶんで探す。
インフルとかノロとか出勤したらダメな病気な場合は別として。

これが、「本部の見解」として、「代わりをみつけるのはオーナーの仕事」っていうのがはっきりするなら。
現場はものすごい変わる、よねー。
ペナルティ取るな、ってことより、こっちのほうが現場のバイトにはものすごい重大な本部見解、だよねー。

わたしもずっと、なんでバイトが代わりをみつけるの?
そんなのオーナーの仕事じゃん。
っておもってたひとりだから。

体調わるくてもムリして出勤したところで、それでかんぜんにカラダ壊したからって、有給もないし、病気理由の休業補償も退職金も失業手当もなんにもない。
時給以外はなんにもお店からサポートなし。

時給しかあげないバイトに、いろいろ責任負わせすぎなんだよね。



某芸能人が、会計前にセルフカフェのカップがほしい、って言ったら、いろいろ炎上した、っていう話題もみかけた。
そんなに燃えちゃうような発言?
って、わたしはおもったけど。

お金払うまえに、レジでカップ渡される、なんてどこもやってる。
あれって、レジ済ませてるあいだにコーヒーがはいってるから、ありがたいよねー。
たくさん買い物したときとか、わたしも、カップもらっていいですか、って聞くけど。
いちども「お金払ってからにしてください!」なんて言われたことない。

すぐカップくれない人だと、反対にぜんぶ終わってからもカップくれるのわすれて、こっちもコーヒーいれるのわすれて、帰る途中で「払ったのにー、わすれたー」ってなったこと、なんどかあるし。
こっちが言うまでくれない人とかね。

先にカップもらうことが、そんなに物議を醸すようなこととはおもわなかったから、「え?ダメなの?」ってびっくりしたわたし。

有名人の発言だから、っていうのもあるとおもうけど。

店員さんがいれてくれる系列なんて。
レジして、わたしのコーヒーをマシンにセットして。
でも、それがはいるまえに次のお客のレジになって、そのお客がいろいろめんどくさい精算とかだと(光熱費とかネット商品の受け取りとか)、そこにかかりきりになって。
マシンのとこにあるわたしのコーヒーカップ、いつまでそこなのー。
って、おもう。

店員さんがいれてくれるコーヒー、手渡ししてくれるとこもあるけど、いれたらレジのいちばん端っこに放置されるお店もおおい。
わたしはレジのとこでコーヒー待ってるのに、コーヒーのカップはものすごいあっちの端っこに置かれるの。
そんな「あっちに取りに行け」サービスなら、さいしょからセルフでいいじゃんー、っておもう。

あ、そこの系列。
いつもレジに立つなり、そこの系列のポイントカードを持ってるか聞かれるから。
それがなんかうるさくかんじて、言われるまえに出してやるー、って燃えて、言われるまえに出すバトルをじぶんでやってた。

それでレジの順番になった瞬間にわたし、そこのカードをレジに出したら。
そこに置いたカードに目もくれずにスキャンはじめた店員さんが、わたしのほうをぜんぜんみないでスキャンしながら「○○カードはおもちですかー」って言ってきたから。

なーんだ、言われるまえに出しても言われるなら、言われてから出すのとおなじだねー、って可笑しくなって、もう「カードおもちですか?」のセリフにイライラしなくなった。

あのカードバトル、店員さんに勝てないよ。
出しても言われちゃうんだから。
負けるが勝ち。





posted by ぴの at 19:47| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

にちようびの交差点とお店で

いろんな出会いがある。
なにかをなくした歌と、わたしはめぐりあう。

たまたま交差点で並んで停まった車から、大音量で古いかんじの男の人の歌が聞こえた。
その曲は、ずーーーーーっとわたしが「なんて曲ーーーーーーーーっ」って気になってたやつ。

それで、歌詞のいちぶぶんだけ、
「あいねーばしーんあなーいそーろーん」
って聞き取れて、あたまのなかでちゃんと英語に変換されたから、必死で記憶した。

それで、帰ってからぱそこんつけて、ぐーぐるの検索バーに、
「lyrics I've never seen a night so long」
って入れた。

そしたら、出た。
ずーーーーーーーーーーーーっとまえから知りたかった曲名が。

ぐーぐるってすごいよねー。

でも、街とかで流れてる曲にスマホかざすとなんて曲かおしえてくれる、っていうスマホのアプリがあるの、このまえラジオで言ってて、それもすごいとおもった。

オリジナルは男の人の曲らしいけど、わたしが知りたかったのは女声の。
ずーーーーっとまえに新旧の刑事コロンボのシリーズをいろいろみて、新シリーズのほうでコロンボの「カミサン」のお葬式からはじまる話の中で流れてた曲。

犯人はコロンボおじさんが逮捕した男の妻で、その愛する夫が出所まえに獄中死しちゃったから、コロンボの最愛の妻を殺す復讐をしたの。
そのストーリーの途中で、その女の犯人が(わたし、この人、そんなに憎めなかった。コロンボはカミサンに復讐をおもいついたこの人をものすごい憎んでたけど)、じぶんの愛する夫としあわせなころを回想をするシーンがあって、そこで流れてたスローな女声の曲がものすごい印象にのこったんだよねー。

それで、ゆーちゅーぶでいろいろ女の人のバージョン探してみたけど、コロンボで流れてたようなスローなかんじなのはなくて。
でも、「声」とか「歌い方」は、これかなー、っておもったの、みつけた。
テンポがちがうけど。



コメント欄みると、これがやっぱりコロンボで流れてたやつなのかなー。

あんなテキトーな歌詞の聞き取りで、ずっとまえから知りたかった曲がみつかるなんてものすごい幸運きぶん。
これも、英語がすこしは聞き取れるようになったおかげだよねー。
それと、ぐーぐるのおかげ(^_^)



もっといろいろ書きたかったけど、曲の動画さがしてるあいだに酔っちゃったから(ぱそこんしながら飲んでた)、またねー。

わすれないうち、ひとつだけ。

日曜の夜に寄ったコンビニで。
わたしのバイト先にいるホログラムおぢさんみたいな年のおぢさんが、ものすごい初歩的(だけど、タイヘンな)ミスをして、わたしに謝罪する事態になった。

呆れるようなミスで、フツーならカンタンに防げる。
それをやっちゃった上に、さいしょはわたしにものすごい軽い口先だけの謝罪しかしなかったから、なんとなくきぶんはわるくなった。
ミスされたことへのきぶんのわるさ、じゃなくて、その人の謝る態度に不快なかんじがしたの。

でも、それぐらいで「不快です」って態度をとるのもものすごい大人げないから、「だいじょーぶですよー」って笑顔でこたえた。
そういうやりとりを、すぐそばで手の空いてるベテランらしい女性従業員が聞いてたはずだけど、まったくいっしょに謝罪の態度に出てくるわけでもなくて、しらんぷりしてた。

わたし。
このお店も、このおぢさんに手を焼いてるんだなー、って察した。
なんどもおなじような初歩的なミスを繰りかえしてるから、だれもフォローしなくなったのかも、っておもった。

「よそのお店」の「お客さま」の立場になってみて、うちのお店もこんな雰囲気出しちゃってるのかな、っておもった。
うちも、いまはわたし以外はだれもホログラムおぢさんと口きかないから。
人手不足を理由にクビにはしない店長も、もうおぢさんとはまともに口きかない。

あれ。
気づいたら、ここのみんな、おぢさんをムシしてる?
って、わたしもつい数日前に気づいた。

そういう空気は、ぜったいお客さんにもわかるよね。
わたしが買い物したお店で、そんなかんじの空気をかんじとったみたいに。

お客の立場になってみたら、内部のニンゲン関係の事情なんて知ったことじゃなくて。
ひとりがトラブル起こして、その処理もうまくできてないのに、ベテランらしい従業員はそっぽ向いてる、っていうのは、お客からみれば、みーんなまとめて「なに?このお店?」ってきぶんになっちゃう。

ホログラムおぢさんとはたらくようになってから、わたしはいろんなところで、似たような「仕事ができない高齢者」の従業員が目につくようになった。
みてて、「あ、この人、ぜんぜん仕事できないねー」「まわりも、この人、よくおもってないねー」って空気を察すると、なんか胸が痛くなる。

わたしは、態度だけは五人前ぐらいにリッパだけど、仕事をおぼえる気は半人前もない、みたいな人といっしょに「きもちよく」ははたらけない。
いろんな黒い感情が湧いては、それを鎮める努力がじぶんに必要で、自然体で接することができなくて、どこか意識的にじぶんの器の容量を拡張する必要がある。

だから、じぶんがお客になったときは、そこのお店の従業員に対して、やわらかいお客になりたい。
それは、罪滅ぼしみたいな感覚?

いちどはなんか急にやさしいコトバをくれたわたしのバイト先のおぢさんは、すぐにそれわすれちゃったみたいにまた、わたしにものすごい暴言吐くおぢさんに戻った。
その上、ほかの従業員たちに、わたしにものすごいいじめられてる、って訴えるようにもなった。
(タバ子さんの真似?ともおもっちゃう)

そんなこと、ひとつもしてないのに。
わたしが意地悪していちども休憩あげないとか、わたしが仕事さぼってぜんぶおぢさんにやらせるとか、おぢさんに怒鳴るとか、なんかびっくりするようないじめをわたしがしてる。らしい。

だれもそんな悪口を信じてないけど、なんでそこまでわたしが憎いのー、っておどろく。
そのうち、はたらいてる最中になんか急に刺されそうなこわさもかんじてくる。
(だまって刺されるほどはわたしも呑気じゃないけど)

よくわからない悪意をものすごい向けられたとき。
わたしは、ものすごい冷たくなる。
態度はちゃんとまともに接してるし、おぢさんが風邪ひいてるときは「だいじょーぶですか。あとはわたしがやりますよ」ってことは言うし、そのとおりにおぢさんの負担を減らそうともするけど。
ホンネでは、おぢさんの風邪なんてぜんぜん心配してない。
風邪ひいてる、っていう事実に対して、わたしが負担をひきうける反応を自動的にしてるだけ。

おぢさんの体調がどうくるしいか、なんて、わたし、ほんとのところ、ぜんぜん関係ないし。

そういうホンネがものすごい意地悪にもかんじて、こころからやさしいコトバを吐けないじぶんは、暴言吐きのおぢさんとなにがちがうんだろ、ともおもう。

そういうつめたい態度は、接客の場でお客さんにわかるように出ちゃってるかもね。
無自覚なだけで。

わたしにぺこぺこ謝らなくちゃいけない事態を引き起こした他所のお店の人に。
「あなたのミスのせいでわたしは確かに困ることになったけど、ぜんぜんきぶんを損ねてはいないのでお詫びは一言だけで充分です」
っていう意味のコトバを、とてもステキなオトナ的に言えるオトナになりたい。

「ぜんぜんだいじょーぶですよー。なーんにもわたしは困ったりしてませんからー。ぜんぜん気にしないでくださいー」
っていう、日本人的な200%な寛容ではなくて。
あなたの非はあなたがちゃんと自覚して二度とミスしないでね。
でも、そのことでわたしに必要以上の謝罪はすることはないのです。
っていう、そういう態度を凛としてとれるオトナになりたい。

ぜんぜんそっぽ向いてるベテランさんの真横で、わたしにペコペコしながらミスの後始末をしたおぢさんに、わたしはさいご、「どうもありがとうございます」って笑顔でわたしもお礼を言って、「また来ますねー」って帰ってきた。

お母さんならこういうとき、どうしてたかなー、っておもったから。
お母さんはいつも、お店でいろいろ困ったサービスされちゃったときでも、さいごは笑顔で「ありがとう」って言ってたから。
わたしも、それを真似しようとおもう。

きもちのいい接客を受ける側になったとき、じぶんもきもちのいいお客になれたらねー。
って、おもう。

黒い笑顔なら難なく自然に出せちゃう体質なんだけどねー。
(^_^)←まっくろい




posted by ぴの at 09:04| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月27日

じぶんをラクにする

ブログやツイッターからぜんぜん離れてる日が数日つづいても、ぜんぜんヘーキになった。
もうこのアカウント、わたしにはいらないのかなー、なんておもうけど。

ここがなければ、じぶんのあたまのなかにあるものを出す場所がぜんぜんないから、これからもここは必要なんだとおもう。

じぶんの病気のことはとくに友だちにもちゃんと話してないから。
去年のうちに行かなくちゃいけなかった「通院の日」を先延ばしにして、ことしになって行ってきた。
そしたら、やっぱり、きぶんがものすごい落ち込むことになった。

着実に進行してて、それを遅くさせるために通院はさぼっちゃダメ、って怒られて。
さぼるとどんなことになるか、具体的にいろいろ言われて、もういますぐおしまいでいいです、っていうきぶんになって帰ってきた。

ツイッターでいま、書いたばかりだけど。
書くお仕事で知り合った親世代の人が、癌の疑いあり、って言われて、その検査をこんどいろいろすることになったんだって。
それでもし、わるい結果が出たら、治療はなにもしない選択とるつもり、って言ってた。
独身だから、扶養してる身内のために長生きしなくちゃ、っていう義務はまったくないから、って。

ものすごい自然なかんじで「治療はしない」って言ってたのが、わたしには衝撃があった。
そういう選択を選ぶ身内がわたしにもいたから、その選択が少しも悲痛の果てのものじゃない、っていうのもわかってきてる。

他人の口からもそんな選択を聞くと、「そっか、ビョーキから解放されていいんだ」っていう衝撃があったの。
ビョーキに振り回されない。
苦痛を緩和する治療だけ受けて、ムリに治して寿命を延ばそうとあらがわない。

お母さんがそんな選択をして、じぶんの尊厳をぜんぜん損なうことなく、穏やかに死んでいけたのを見たから。
わたしも、いつか将来、そういうときがくるなら、そうしたい。

ただ。
わたしのビョーキは、いろいろ癌とは進行の仕方がちがう。
途中で、死んだほうがぜんぜんマシ、っていう、じぶんには耐えれそうもない苦痛な時期が来る。
わたしは、そのときがじぶんのおしまいの時期にしようとおもってる。
そう決めてる。
それが何年先かわかんないけど。

そのときまでは病院通いをつづけるつもりだけど、精神的にきつさをかんじるたびに、それを越えなくちゃいけない理由が独身のわたしにはない気がして。

なぜ、人は生きるんだろう。
ってことを、よくかんがえる。

人生なんてぜんぜんたのしくないのに。
わたしには、そう。
会いたい人には二度と会えなくて、いだいた夢はムリヤリ諦めをつけて、かかわりたくない人たちとの縁はカンタンには切れず、できればはたらきたくないけど生活費のためにはたらくまいにち。

さいきん、わたしのなかに「むなしさ」が漂う。
いろんなことに。
なにをやっても、むなしい。

むなしさは、見返りを欲しがることの裏返しなのかも。
無自覚にでも。
ってことも、かんがえた。
だから、むなしさをかんじるっていうのは、じぶんにそんなつまらない欲望があるせいだ、ってじぶんを責める。

だけど。
そうやって、じぶんをただそうとして。
そんなことまでして、じぶんをきれいにする必要なんてあるのかな。
そんなことも、かんがえる。

むなしい。
ってかんじた、その感情を、じぶんが汚いもののように否定しちゃったら、わたしがわたしでいる理由がなくなる。
わたしが。むなしさをかんじた。
それは、わたしの感情。
わたしがどんなにただしくないニンゲンだとしても、いまのじぶんが、そうかんじた。

いろんなことを、じぶんでがんばる。
仕事の手は抜かなかったり。
それでも、そういうじぶんを律した結果に、むなしさに襲われてしまう場合。
それは、じぶんの未熟さを責めることがただしいの?
じぶんがむなしさをかんじてしまったのは、不可抗力。
そうひらき直りたい。

人が衝動的に殺人をおかしてしまうきもちがわかる。

そういう衝動がときどき、じぶんに湧くようになった。
特定のだれかを殺してしまいたい、っていう、矛先がはっきりしたものではなくて。
無差別殺人みたいに、街中を「わーっ」って刃物振りまわしながら駆け抜けたい衝動。
その刃物がだれかをひっかけてしまっても、そんなことお構いなしに。

でも、わたしには人は殺せない。
だから、その衝動はすぐ、じぶんに向かう。

死ねばいいのに。
っていうコトバは、じぶんは口にしないつもりで生きてきた。
でもね、このコトバ。
いちど吐いてしまうと、ものすごいきもちいいの。
ものすごいカタルシス。

ただし。
わたしはそのコトバを、じぶんに向ける。
「シネバイイノニ」
じぶんに言う。声にして。
シネバイイノニ。
シネバイイノニ。
shinebaiinoni.

精神がこわれてしまってるお父さんのお母さんから、死ね死ね死ね死ね言われたときより、じぶんに「シネバイイノニ」と吐くことは、それがだれの望みでもあるような気がする。

むなしさをかんじたあとは、じぶんに向かって、シネバイイノニ、とつぶやく。

なぜ、人は生きるの?

なぜ、人は生きようとするの?

わたしの書くものは、愛に溢れてる、って反応をもらう。
その媒体でとるアンケートで。

世界観、好きです。
ぜったい愛がある。だから好き。
こういう愛の描き方があったんだ。

そんなアンケートの回答を転送してもらう。

愛なんていらないじぶんが、愛を描く。
詐欺師のつもりはなくて。

愛はある。ちゃんと。この世界に。

ただ、それは、わたしのものではないし、わたしがそれをほしいわけではない。

わたし自身とはぜんぜん関係ないものだけど、たしかに、愛っていうものは、在る。

在るものを、わたしはただ描く。

そういう創作は、じぶんの生身の感情をダイレクトに反映させるわけではないから、ものすごいラク。

わたしは、じぶんが書くものには、かならず、「書いた文章は先につづく」ことを想定してる。
いちばんさいごの「。」を打ったとこで、書いたものがおしまい、なわけではなくて。
その先にも、ずーっと、それはつづく。

その「先」に、わたしは意識的に「希望」を置く。
じぶんは厭世観むんむんな性質なのに。

そんなじぶんに憐憫があるわけではないけど。
わたしは、じぶん以外の人には、だれも、しあわせでいてほしい、っていう、無責任な感覚がある。
だからわたしは、日常のなにげない、だれもたいして記憶もしないようなささやかなことが、その人のしあわせの基盤になるような物語を創るのが好き。

じぶんはまいにち、わけのわからないむなしさに襲われながら。
だれかのしあわせを無責任に思い描く。
それで、じぶんがたのしく生きれない罪悪感を打ち消してるのかもしれない。

たのしく生きる必要もないと、わたしはおもっているけど。
どこかで、人生をすこしもたのしめないことに、やましさかんじる。

お母さんに。

このまえ、ものすごい潮がひいてた漁港で、ものすごい潮が満ちてる状態のときをみた。
びっくりするぐらい、「海」が陸に迫ってた。

わたしは、そんな自然の光景をみると、しあわせをかんじる。
生きてると、こんなもん見れてすごいなー、っていう、しあわせ。
その、かんじた「しあわせ」の感覚を、物語上のキャラクターにおとしこむ。

生きててすこしもたのしくないけど、そんな人生でも、しあわせをかんじるものはある。
いろいろ「たのしい」という感情を、じぶんでだいじに持とうともする。
それをひとつひとつ、じぶんでクリップして、「しあわせ」や「たのしい」感覚を「体感」にかえる。

体感は、料理でいえば、出汁。
その出汁で、いろんな食材といろんな調味料をあわせて、いろんな調理法で創作の物語をつくる。

わたし以外の人は、すべて。
しあわせに生きて。

そうおもうことが、ウツでダメになっていくじぶんのダメさをごまかすことにもなってる。

世界中がしあわせで溢れてたなら、じぶんがどうダメになってっても、だれも気づかないから。

どんなむなしさをかんじても、人のしあわせな姿をみれば、むなしさにあらがう気持ちなどなくなって、わたしはラクになる。
諦めて、ラクになる。

わたしだけ、この世でいちばんわるいのだ、とおもうと、わたしはものすごいラクになる。

だれかのせいではない、という感覚だけが、じぶんをラクにさせてくれる。



posted by ぴの at 18:39| オーランド ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする