2017年03月06日

たっぷりの海の週末記

冬眠から覚めるのにうってつけの日(バナナフィッシュ的な)な啓蟄のあったかい昨日とうってかわって、また冬がもりもりがんばった今日。
外に出たときの寒さが、快感。



保土ヶ谷PAで流れてるIinstrumentalのBGMがFar East Movementだらけだった。


お蕎麦食べながらこれ聞けるなんて、サイコー。
わーい。

このPAの売店は、横浜とか神奈川のいろんなお土産が売ってて、これもサイコー。
赤い靴のチョコとかすごいかわいいし。

神奈川名物の柄のてぬぐい製品とかもいろいろあって、ものすごいステキなの。
シュウマイの柄(赤地にグリーンピースが乗っかった白いシュウマイが描かれてる)のてぬぐいハンカチがかわいすぎて、わたし、人にあげるのに買っちゃった。
だれにあげるかぜんぜんかんがえてないけど、だれかになにかちょっとあげたくなるようなときに、これあげようとおもう。

書くお仕事の人たちといろいろ飲んだりして会うと、みんな、いろいろちょっとした手土産交換とかするのね。
だれかがシュミでつくったビーズのアクセとか、旅のお土産とか、ほんとにちょっとしたもの。

人と会うときに、相手のこころの負担にならないような「ちょっとしたもの」をプレゼントする、って、いいなー、っていう感覚をわたしはこれで学んだ。
だから、いろいろ「ちょっとしたステキなもの」を見つけると、あげるアテがすぐにおもいあたらなくても買うクセがついた。
人にちょっと贈る、っていう箱にそれをしまっておく。



ゆうべの漁港は道路のとこまで海面が押し寄せてて。
「海がたっぷり」
っておもった。

潮がひいて波打ち際がずーっと向こうにあるときの漁港は、
「海がちょっぴり」。




これ、ラジオで一日一回以上は聞く、ってかんじだけど。

これ流れるたびに「あ、ミッ●ーマ●ア♪」って、わたし、おもっちゃう。
ミッ●ーの声(らしきもの)もはいってるし。

でも、ネットでいろいろみても、おなじ感覚になってる人、みあたらないんだよねー。

でも、わたしの脳内にミッ●ーマ●アが重なって再生されちゃうのです。



読んだマンガのことでいろいろ書きたかったけど(「書く」ことが好きな人には、いろいろ興味深いマンガだったとおもうから)、ちょっとつかれちゃったから、それはあとで。

あとで、あとで、と、あとまわしにしてることばかりで、ほんとに、ブログになにも書かないまま過ぎてるものがいろいろありすぎるけど。

どうやったら、「書きたいときにブログを書く」みたいな自由時間を自在にもてるようになるのか、まいにち時間にただ追われてるだけの無能なじぶんに腐る。

ウソブログをつくって、じぶんでたのしんで書いてるけど。

客観的に、ああいうウソをテキトーに書いてるだけのブログ、って、人が読むとなにがおもしろいか、ぜんぜんわかんない。
それこそ、公開する必要性とかかんがえると、自己満足にもほどがある、とおもっちゃうけど。
でも、べつにどこからもお金をとってるわけじゃないから、好きなように書いてる。

それを読んでくれる人がおもったよりはいて、あんな内容で他人には内容が理解されてるのかなー、ってギモンが湧くけど、書くのはたのしいから、まだ少しはつづけようとおもう。

本の話をもっといろいろ書きたい。
けっきょく、じぶんの興味、って、そこに強くあるんだとおもう。

じぶんが「そのお仕事をしてるひとり」として、プロである立場から、差しさわりのない話を発信したいわけじゃない。
プロの書き手の人のオフィシャル的なアカウントで発信されるものって、つまんないものがわりと目につく、ってわたしはかんじてて。

もちろん、ホンネをフツーに書けちゃう人もいるけど。
ホンネを書く人には、執拗なアンチとかがいろいろついて、いろいろめんどくさいことになってたりする。
だけど、じぶんの発言って、もっと自由であっていいとおもうからねー。
その「自由」を、表現者はいちばん守りたいものだともおもうし。

きれいごとしか書いてないよねー、ってかんじる人とか、じぶんの仕事の宣伝ばかりになっちゃう人とか、わりといろいろみる。

ラジオである日、わたしは名前しか知らなかった「書き手」を知った。
その本人が出てて、その人のトークにそんなに惹かれるものはなかったんだけど、その番組でその人が書くものがあまりに絶賛されてたから、作品にものすごいキョーミ持った。
その人の名前でググッてみたら、本人のブログが出た。

飛びつくように読んだら、過去記事はいくつかこころ惹かれるような魅力的な記事があったけど、さいきんのものは、じぶんの仕事紹介とか、各方面に差しさわりのないきれいな話ばかりになってた。
そういうきれいごとを書くようになった時期っていうのは、その人が売れてきた時期、らしい。

売れるようになると、きれいな発言しかできなくなる。
それは商業的にそうするしかない事情もわからないわけではないけど、それってファンをどれだけ切り捨ててるのかなー、ともおもった。

あたらしいファンを獲得することもできるから、売れたい書き手はそういう路線に走るようになるんだとおもうけど。
商業ベースではないその人の素のコトバ、を好いてた人は、商業ベースに乗っかったコトバに裏切られたきぶんにはなるとおもう。

あのさー。
「書く人」はさー。
商業ベースに媚びるなー。

って、言いたくなるよね。
わたしは、なる。

売れないとプロとして生活がなりたたなくなる、のはわかる。
仕事だから、利益を追求するのはあたりまえ、っていうのも、わかる。

でも。

それで、いいの?

とも、おもう。

編集者サイドは。
作家が書いたものを、作家に売らせるなー。
とも、おもう。

あのさー。

自由な感覚で表現する人に、その表現したものの販売責任まで追わせちゃうのって、ものすごい冒涜にもおもうんだよね。

たとえば。
死にたくなるような人の心境を、その作家の切り口で表現して、読み手の深層までえぐりとっていく。

ぐらいの「コトバの力」を魅せた人に、「どうです。これ読むと元気でますよ。ぜひ読んでください。損はさせません」みたいな商売気まで持たせるのって、ものすごい陳腐、じゃん。

自著をせっせとツイートしてる作家。
自著への絶賛レビューをせっせと拡散してる作家。

これ、かっこいい?

好きな書き手もそういうことしてたりするから、わたしは好意的な受け止め方をして、できるだけそこに共感したいとはおもう。

でも。

ホンネは。

みっともない。

っていうきぶんになるじぶんの反応を、打ち消せないでいる。

村上春樹おぢさんは、じぶんは依頼に応じて書くスタイルの書き手ではない、ってことを書いてた。
表現者として、自由が失われてしまうから、って。

書く仕事をしてる人は、依頼に応じて書くしかない立場の人が圧倒的に多くて、依頼を断れる立場やじぶんから好きなときに持ち込んで発表してもらえる力のある人ばかりではない、っていうのが現実なんだけど。

でも、「売れるために媚びる」ことは、表現者の自由が失われる、っていうのには、わたしも共感する。

書く人は、じぶんの書くスタイルに、もっとかっこつけようよ、っておもう。

2ちゃんねるやアマゾンのアンチレビューは見ない、っていうことじゃなくて。
じぶんの作品を、じぶんで売りつけない。

売るのは出版社の仕事じゃん。
そのために、出版社はあるんじゃん。

書いたものをじぶんで売るなら、出版社なんて要らない。

書き手がじぶんの作品を売るなら、そういうフリマみたいなとこで、じぶんの作品の小冊子をテーブルに並べて、そこにじぶんが座ってお客さんが来るのを待つ、ぐらいな呑気なかんじがいい。

どうです。
読んでみませんか。
みんな、絶賛してるんですよ。
ほら、損はありませんよ。

っていう狙いの売りこみの仕方に、どんな美学があるのかなー、って、わたしはおもう。

じぶんの言動に対する美学に鈍感な表現者、って、矛盾がある気がする。

出版社は、作家に販売中の自著の宣伝をさせちゃいけない、っておもう。
発売日にお報せ的に言うぐらいはいいとおもうけど、その絶賛感想を書いた本人がせっせと拡散するような、そういう美学もへったくれもない行動を、表現者がすることに、わたしはなんか抵抗がある。

表現者とセールスマンは、合致することになんの矛盾もないのか。

っていうとこに、いろいろかんがえちゃう。



ねむくなったから、これで寝るー。
るるるー。

睡眠時間がすくなすぎて、深刻な病気になったおれが忠告するよ!
まいにち最低でも5時間は寝ないと死ぬよ!

なーんて言っても、人類は、何時間寝ようが「ぜんいん」、かならず死んでるんだけど。

いつ死ぬか、じぶんに都合のいい死期に死ねる人など稀なのだから、好きに生きるのがいちばん。

このまえの検査で、いろいろと問題ある数値を並べられて。

とにかくいろいろと「やばい」みたいなので、いろいろと気をつけて生きなくちゃいけない話をされたけど。

「気をつけて生きた場合、気をつけないで生きるのとどれぐらい生存率がちがうんですか」
って聞いたら、主治医の人は、
「うーん。気をつけて生きたって、サイアクな結果になっちゃう人もいるからねー」
って。

だから、じぶんが納得いく選択をするしかない、って話をして、じぶんもそれに同意した。

わたしはいろんな科で検査しまくる必要がある状態のカラダだから。
ほかの科の先生ともそんな話をして。

「ストレスで悪化するから」
っていう状態にわたしはある。
でも、その話をされてから、
「ストレスがない人なんていないけどね」
って、その先生は言った。

医学的に、きれいに、ただしく、なんて、人は生きれない。
なにかを犠牲にして、なにかを得る。
そのさじ加減みたいなのが、人それぞれの人生観、なんだとおもう。

わたしは、いざ余命が限られたとき、一切の延命のための治療はしない、って主治医の人に話してる。
そういう治癒に向けた治療をしない場合、その先生は、その時点でもう「診れない」んだって。
医者は「治す」ためにいるのだから、治す気がない人は診れない、んだって。

だけど、治さない人のための医療ケアみたいなものはちゃんとあって、わたしはそこに紹介されるらしい。

わたしは、いまのじぶんを厳しくして少しでも長生きしようとはおもっていないので、生きてるあいだのじぶんを少しでもラクな状態に保ちつつ、少しでも穏やかな死を目指したい、って話した。

深刻な病気をかかえると、そこに否応なしにも「死生観」への自覚が生まれる。
これは、この週末、わたしが読んだ天才小説家のマンガにも通ずる話だけど。

ただ生きることばかりが、「生きる」ことじゃない。
わたしはそうおもう。
どう死ぬのか。
それ、だいじ。

何年先になるかわからないけど、人は「かならず」死ぬ。
生きることばかり、どう生きるかかんがえる、そういう思考に自覚をもとうとする風潮だけど。

だれだってかならず死ぬのだから、じぶんの死に対する心構えがどう持てるか、ってことで、じぶんの生きる姿勢ができるよね。

わたしはいろいろとめんどくさがりで、がんばることとかキライだから、がんばらないで死にたい。
つらい「がんばり」が必要な闘病はしたくない。

そこまでがんばって生きる理由は、わたしにはなにひとつない。

だから、生きてるあいだは、とてもラクに生きてたい。
そして「やれやれ」って、息吐いて、力抜いて、命を終了にしたい。

じぶんの病気に、いくつもの「タブー」がある。
そういういくつもの禁忌をかかえこむような病気。

でも、わたしはそれをぜんぶ守らない。
それで命が縮むとか言われても、縮む命に、なんの惜しむきもちがない。

ただしく生きて。
その生き方が、じぶんには合わないとして。

合わない人生を送って、生きて、その人生に、わたし自身、なんの意味をみいだすのだろう。

だらしなく生きて、自業自得で死ぬ。
それはとてもわたしらしくて、そういうじぶんに呆れながら死ぬぐらいがラク。

あんなにじぶんに厳しく生きたのに結局死ぬのかー、なんて悔しくおもうより、「ひゃー。やっぱりだらしなさすぎて、わたし、もう死んじゃうー」って、じぶんに悪態つきながらへらへら死んだほうがラクな気がするもん。

いくつかのクスリを経済的に断って。
主治医が「うーん」っていう数値に、その治療はしない選択をして。

それで、ずーっとこれ以上は悪化しない可能性だってあるからねー、って慰めのように言う先生のコトバに、「結局、運任せでどうにもならないってことですよねー」って、わかったようなクチをきく。



書いたもの、が、人に認められたり、売れたりすることばかりが、書く目的ではなくて。

生きること、は、ひたすら長く生きることばかりが、生きる意味でもなくて。

やっぱり、この週末読んだマンガ、そういう話をするのにいいネタがごろごろ詰まってる。



あのね。
飲みながら書いてたから、もうここで酔ったかんじに脳がとろけてて、じぶんがなに書いてるのかわかんなくなってきた。

じゃあのー。

posted by ぴの at 20:54| オーランド ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月25日

take a bow

まいにちまいにちまいにちまいにち乾いた風がつよすぎて、窓を1ミリも開けれない。
昼間の外は換気するのにきもちがいい気温だから、できれば小窓なんかは開けっぱなしにしておきたいのに。
窓をちゃんと閉めてても、畑のこまかい土がはいりこんできて、ざらざらする。

さいきんはにわか雪、がおおい。
気づくと雨じゃなくて雪が降ってるの。
フロントガラスが濡れたり、車の屋根に雪のつぶがつぶつぶ積もったり。
夜中なんかは1時間ぐらい降っただけで、畑が真っ白になる。

だけど、すぐに雪はやんで消えて、すぐに地表は乾いて、風が吹くたびに湿ってたはずの土がさらさら舞い上がりだす。
夜中でも道を走ると、対向車のライトが照らしてる範囲が茶色のスモーク状になってて、昼も夜も一日中空気がひどいことになってる。

真夏のゲリラ豪雨がいま、季節の神さまのうっかりミスで一回ぐらい襲ってくればいいのに。



プレミアムフライデーがなんなのか、やっとさっきわかった。
会社勤めの人は早く帰れるとしても、それでいろいろお金をつかってもらうとしても。
そのお金をつかってもらう側の仕事の人たちには、プレミアムな金曜日ってぜーんぜん関係ないじゃん。
経営者の利益はあがるのかもしれないけど、底辺時給ではたらいてるブラックサービス業の非正規労働者なんて、なんの得もないよね。

仕事から解放される時間を増やして、どんどん遊んでお金をつかってもらう。
っていう政策がとられるたびに、そういう人たちが遊ぶ場所ではたらく人たちにはなんの恩恵があるんだろう、ってフシギなきもちになる。

サービス業の非正規には、「週末」なんてぜんぜんうれしくないよ。
コンビニなんて日曜祝日割増時給制度すらないし。

原稿だってー。
会社勤めの編集者さんは、週末とか連休とかは、「休みまえ」に「休み明け」シメキリの仕事をくれる。
じぶんたちが休んでるあいだ、書く人は書くお仕事をする。
休日執筆割増原稿料制度、法律でつくってー。



いろいろと人がいなさすぎるようになったわたしのバイト先のお店。
シフトがものすごいことになってて、それは店長の自業自得だからあんまり同情もしないで、「おもしろいことになったなー」っていう黒いきもちで見てたけど。

もうこの業界、まともな日本語が通じてまともな常識をもってるまともな人(日本人じゃなくてもOK)でシフトをきちんと埋める、ってことは100%不可能なんだとおもう。
じゃあ、仕事できなかったり、常識がなかったり、日本語がカタコトすぎる外国人だとしても、とにかく出勤してきて退勤時間まで店内にいてくれればいい、っていう妥協をしても。
そういうのも、もう難しい時代なんだとおもう。

きちんとシフトが埋まらない。
リアルネコの手を借りるしかないぐらいに、「ニンゲン」だけではシフト埋めれない。

都内で見かけたある店舗(コンビニじゃない)は、人手不足なので週に何日かお休みします、って貼り紙がしてた。
コンビニは契約でお店を閉める時間をつくれないから、まえに書いたことあるけど、人手不足なのでレジを待たせる、って書いてあったとこもある。
ワンオペでまわしてる系列もみる。(その系列はいいのかな)

うちのお店はいろいろありすぎて、「かろうじて最低限の仕事ができる人」だけで営業がなりたたない状態になって、仕事がほとんどできない人(能力がひくいんじゃなくて、意識がひくい人ばかり)でシフトを埋めなくちゃいけなくなって、店内のいろいろがものすごいひどいことに陥ってる。
店長と店長代理と店長一族の(ぜんぜんつかえない)高齢の身内で「ぜんぜん埋まらないシフトのコマ」を埋めてたら、その人たちの健康被害がでるレベルになった。

仕方ないから、シフトを減らしたかったわたしもヘルプ側にまわるようになったけど、そんなことじゃなんにも改善されない。
しかも、「仕事の意識が最大限にひくい人」たちのシフトの日には納品を制限して、わたしのシフトの日に集中的に発注かけるようになったから、わたし、作業を最小限にしてもらってるほかの人たちとおなじ時給っていうのが死ぬほどバカらしくなってる。

こうなると、ほんとに、職場は崩壊してくね。
いままで、いろいろこのバイトのグチとか文句とか書いてきたけど、そういうレベルとぜんぜんちがう。
ステージがちがう、っていうかんじ。

ホログラムおぢさんは、こんな状況に陥ってる「お店の危機」がぜんぜん理解できなくて、あいかわらずのんびり意識ひくいままはたらいてるけど、店長と組む日が増えたから、そのストレスがたまってるみたいで、わたしへの暴言や態度がものすごいひどいことになった。

あんまりひどいから、わたし、ついに反撃にでた。
信じれないぐらいの暴言を吐きつづけてとまらないおぢさんに、ずっと黙って仕事してたけど、いきなりわたし、(店内にだれもお客さんいなかったから)、レジカウンターに金属のトレイを「バーン!!!!」と叩きつけて。
「いい加減わたしも言い返しますよ!わたしと喧嘩しますか!?わたし、口喧嘩はつよいですよ!」
って、吼えた。
ほんとに、吼えた。

そしたら、おぢさん。
一瞬で黙った。

わたし、じぶんの口調のきつさにびっくりした。
って、じぶんがすごいイヤになったけど、なんか威圧的な言い返しをしないと気が済まないぐらいの沸点に達してた。

その日はそれからふたりして、一言も口きかないで黙々はたらいた。
(はたらいたのはわたしだけ。おぢさんはふてくされて、レジで仁王立ちしてただけ)

その次にまた組んだとき。
こんどはおぢさんが反撃してきた。
なんかいきなり、「このまえのことだけど。こっちがなんかしたわけじゃないのに、アンタ育ちがわるいね。どんな親に育てられたんだか」って、ずーっとくどくどからんできた。

だからわたし、ちらっとおぢさん見て、「わたしの生い立ちが今夜の仕事にどんな関係がありますか」って、こんどは大声にならないように、ものすごい感情のない声で抑揚なくぼそっと言い返して、それきりじぶんの仕事を黙々した。
そしたら、ずーっとぶつぶつ、わたしの親の顔がみたいとか、いろいろからみ続けてきたから、わたし、うちの菩提寺をおしえた。
そこのお墓にお母さんがいるので、そこに会いにいってください、って。

そしたら、次のシフトのとき、「アンタは長生きできるよ。性格がきついオンナってのは長生きするんだよ。アンタのお母さんはやさしかったんだね。だから早死にしたんだね。そのぶん、アンタは長生きしなさいよ」って背中をパタパタ叩かれて励まされた。
('_')

このおぢさん、やさしいときと暴言のときと極端すぎて、ほんと、わかんない。

店長ともすごい喧嘩した。
シフトの穴埋め地獄がすごすぎて、ものすごい疲れ果ててきてるのはわかってたけどねー。
ある頃から、だんだん不機嫌になって。
わたしにだけじゃなかったけど、わたしと組んだある日、一気に八つ当たりみたいに不機嫌をぜんぶぶつけられた。

店長が疲れきって、通常なら40分ぐらいで終わる納品作業が、40分経っても「え?まだこれだけ?」ってぐらいしか進んでなかったから。
わたし、店長がやばいぐらいに疲れてる、っておもったから、じぶんの作業は後回しにしてそっち手伝って、店長に休憩はいってもらおうとしたら。
じぶんの仕事をなにさぼってんだ、って、ものすごい形相で怒鳴られてびっくりした。

じぶんのは後で充分間にあうから、って言ったら(ほんとに余裕で間にあうの)、そうやっていつもやってないじゃないか、って怒鳴られまくった。
「は?わたしが?わたしはいつもぜんぶやってますよ。やってないのはほかの人だとおもいます」って、わたしもやっと口をはさむように言い返した。
そしたら、「ほかの人は関係ない。じぶんの仕事をきちんとやれと言ってるんだ!」って、ものすごい喚き散らしてきて、ものすごいこわくなった。
(このときもお客さんはぜんぜんいなかったけど)

わたし、じぶんの作業残して帰ったこといちどもないです、って言ったけど。
やってないのをこっちは確認してるんだ、口応えするな、ちゃんと仕事しろ、って怒鳴られまくったから。

ほんとにわたしがやってないって確認したんですか?
って、わたし、ものすごい醒めた口調で返してから、「そんな言いがかりで怒られるなら、わたしもここ、辞めます。こんなにシフトの穴埋めの協力してるのに、バカバカしい」って言い返した。
「今度のシフト、出しません」って、次のシフトを出す時期だったから、そう言ったら。
そんなすぐに辞めれるわけないだろ、って怒られたから、「じゃあ、次のシフトからぜんぶの日を出れない、って出します」って言い返した。

そしたら「そういう話じゃないだろ」って言って、それから、「ぴのさんじゃないのはわかってるんだけど、みんな、いい加減な仕事するから、ぴのさんについ当たっちゃったよ」って謝ってきた。

「店長、疲れすぎてるんですよ。あとはわたしがぜんぶやれるから、休憩しててください」って言って、そんな休んでられない、って言い返してたけど、ムリヤリ店長を休憩に入れた。
それで一時間ぐらいで出てきたから、もっと休んでてください、って言って、そんなわけにいかない、っていうから、疲れて八つ当たりされるのイヤだからわたしのシフトの日は休憩たくさんとってください、って、わたしもきつい口調で言い返した。
だって店長、何時間はたらくのー、っていうぐらい、シフトはいりっぱなしだからねー。

それで、店長にできるだけ休憩とらせて、わたしはフツーにはたらいて、それから、ほかの日の店長の地獄のシフトをいくつかかわってあげた。
「疲れてるのわかるけど、八つ当たりされるの、すごいイヤです。こっちもどっと疲れます」
って文句を言ったら、「ちょっと寝不足すぎてイライラしてた。ごめん」って謝ってくれたから、それで店長とはフツーに戻った。
店長代理から、そのあとで、「まさか、ぴのさん、辞めないよね。こんなときに辞めないよね」ってものすごいきつく言われた。
店長代理とも関係がこじれてたから、ふたりの対話ってさいきん、いろいろ喧嘩っぽいんだけど。

「こんなに人がいないときには辞めないつもりですよ。いちおう、雇ってもらってお世話になったから。でも、あんまり不機嫌ぶつけられると、わたしもバカバカしくなります。そしたら辞めるかも」ってぐらいは言い返した。

そしたら「そうだよねー。さいきん、わたしもぴのさんに当たりすぎてるって反省することおおいんだよねー。でも、ぴのさん、言い返すようになったから良かったとおもって。これからも喧嘩していいから、言いたいことは言い返して、それでなんとかお店支えていこうよ」って店長代理に言われた。

職場がものすごいブラック状態になると、ふわふわした性格で穏やかににこにこはたらきつづける、なんてできないねー。
イライラしてくる人と、こっちも負けずに戦うようになって、こんなじぶんイヤ、っておもいながら、でも、ほんとに雇ってもらったこととか、いろいろお世話になったことはあるから、職場の危機をじぶんの感情だけで切り捨てれない。
そうやってブラックに取りこまれていくのかもしれないけど、わたし、じぶんがどんどんふてぶてしくなっていくのが可笑しい気もある。

辞めればいいのにね、こんなバイト。
でも、文句言いながらも、ぜんぜん辞めない。
辞めても、次にまた同系列の他店舗ではたらいてる。
バカみたい。わたし。

なんで辞めないんだろ。

いろんな常連さんとおしゃべりするのがたのしいから?
お店をいろいろ変わってきて、常連さんも変わってきてるけど。
わたしがいまのとこで働いてるの知った、まえのお店の常連さんが、わざわざ来てくれたりもする。

わたし、いま辞めないのは。
いつでもこのバイト、辞めることはできるから、だとおもう。
経済的に、いちおう、このバイトしなくても、生活はなりたつようにはなったから。

いつでも辞めてやれる、っていう強気が維持できるから、なんとなくじぶんに余裕が生まれるのかな。

いろんな人と言いあいすると、こころがすさむ。
わたしは性格がよくなくても、人といつもあらそう状態にじぶんを置くのは苦手。
だから、対人関係でこころがすさむようなことがあると、もう辞めてやる、っておもう。

だけど。
わたしもこうやって、壊れていくんだろうね。
じぶんのこころのだいじなぶぶんを強酸で溶かしていくみたいに、どろどろした場所から逃げ出さない。

人って、わたしにとってものすごいキライなぶぶんがたーくさんあったとしても。
ちょっとだけ、その人のやさしさみたいなカケラを見ちゃったとき。
そのやさしさがじぶんに向けられたわけでもなくても、「あ、この人の中にこういうやさしさもあるんだ」って見えたとき。
それが、錯覚だとしても。

この人はわるい人ではない、っておもっちゃう。
その、ちらっと見えたやさしさみたいなものを、わたしはじぶんの中に僅かにある「善意」をかきあつめて、きれいなこころで向き合わなくちゃいけないきぶんになる。

そういうじぶんを、いちばんバカらしいとおもうけど。
わたし、すごいキライな人の「少しはいいぶぶん」を見つけると、じぶんがまともなきもちになれるのかもしれない。
じぶんの理性みたいなものに陶酔できるのかもしれない。

けっきょく、わたし、じぶんを少しでもまともなニンゲンのふりすることをやめれない。








出先で流れてるのを歩きながら聞いてて、これもうっとりするようなきれいな曲、っておもった。
この歌詞は聞いてるだけで、わたしにもわかる。
ものすごいわかりやすい(易しい)英語、ってことなのかなー。

わたしも華麗にお辞儀して職場を華麗に去りたい。
人生からも華麗にお辞儀して「さよなら」と言って、華麗に去りたい。



 
posted by ぴの at 19:47| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月20日

月光が落ちてこない夜

集中して書きたい仕事があったから、ぜんぜん文体がちがうブログとか書くのはキケンな気がして、遊びのネットはかんぜんに断ってた。

じぶんがこういう仕事をするようになると、「できあがった作品」より、それを創り上げるまでの「メイキング」のほうに興味が湧く。
同業の人たちといろいろ仲よくしてもらって、いろいろ飲んだりするけど。
意外に、じぶんが手掛けた仕事のメイキング話、ってしないんだよねー。
「全体公開」的なエピソードはいろいろ聞いたりするけど。
そこでは語ってもらえないぶぶんの創作秘話、みたいなの。
企業秘密、ってことなのかな?

この人がなんでこの仕事を、ってとこを知りたくても、どうしてその仕事をゲットしたか、って、案外「ほんとの話」はしてもらえない。
仕事のグチとか、プライベートなこととか、そういうのはお互いに突っ込んだ話ができるようになったとしても、「ここはだれにも公開しない」っていう鍵の領域を、だれもみんな持ってる。

おなじ書くお仕事をする人たちといろいろ知りあって、ものすごい好きになる人、っていうのが何人かいる。
ほとんどはわたしより年上の女性なんだけど、セクハラ的なことをまったくしてこない年上男性の人もいる。

そういう「好きな人たち」と集まって、たのしい時間をわいわい過ごすと。
この仕事をしてよかったなー、っておもう。

でも。
わたしがこの仕事を辞めたら、わたしはもうここに混ぜてもらえないんだ、ともおもう。
そんなこと関係なく個人的につきあってくれる人もいるかもしれないけど、少なくとも「同業の仲間同士の集まり」にはもう呼ばれない。

仕事をしてるから、声がかかる。
仕事をしてるから、知らない人からも話しかけられる。
仕事をしてるから、初対面でもすぐにわいわい盛り上がれる。

仕事の繋がり、って、その仕事をしてる、ってことが基盤だから、繋がっているあいだはとても頼もしくてありがたいものだけど、その世界からじぶんが離脱してしまった瞬間、消えてしまう世界だなー、っておもう。
そんな儚く脆い世界を、なぜ人は必要としたり、それをだいじにしてしまうんだろう。

脆いものだからだいじにする、っていうかんがえもあるけれど。
じぶんが「なにもの」っていう属性を変えた途端に断ち切れてしまう世界に、じぶんが生涯つきあおうとする必要はない。

こちらも、じぶんが「ちがう場所」に拠点を移すたびに、世界を変える。
それぐらいの割り切りが、じぶんを自由にする。

なにがあっても繋がっていれる人、というのは、わたしでも何人かは思いつく。
だけど、それは「属性」がちがうぐらいでは断ち切れない、という絆ではあるけれど、わたし自身が変わってしまったら、そこにはなんの保障もない。

わたしが読んでるあるブログの人は、躁鬱をかかえてるらしくて、躁転したときに人が離れていくことを書いてた。
わたしが身近のだれにもじぶんがウツなのを話さないのも、メンタルの問題は他人にはシェアしきれない重さがあるとおもうから。

メンタルなものに限らないね。
わたしのやっかいな病気のことも、人に打ち明けたところで、人は困惑しちゃうとおもうから。
優しい人ほど、こころを痛めてくれるとおもうから。

わたしは人前ではなるべく理性的にふるまって、ヒステリーも起こさないし、愛想はよくなくても不機嫌にはならないし、人に迷惑かけないような思考を捨てきれない。
だから、「離れていかない人」はまだいる。
「まだ」というだけ。

わたしが「人が変わったように」変わってしまったら、いま離れていかない人たちだって離れてしまうとおもう。

孤独を味方にする、っていうのは、「離れてしまう人」にいちいち執着しなくて済む、ということ。
いつかわたし、この輪にいれなくなるときがくるかもしれない、ってかんじるとき。
その輪にいるあいだは、たのしい時間のシェアを「たのしい」とかんじるし、それと同時に、「それがなくなっても構わない」という冷めたじぶんも育ってる。

書くお仕事をしてると、依頼がきたとき、それを引きうけることで、ある種の世界へのパスポートを更新するきぶんになる。
いつか、「もう書くお仕事はいいや」っておもったとき、わたしのそのパスポートは効力を失う。
わたしにはアクセスできない世界ができる。
そこに、それまではじぶんがどれだけ気侭に存在できたとしても。



宇多田ヒカルさんの『letters』って曲を、このまえ、どこかでなんとなく耳にした。
お母さんがもってたCDにも入ってたから、この曲は知ってる。
いい曲だなー、って、なんとなく、わたしはおもってた。

このまえ、ひさしぶりにこの曲を耳にしたときは、いろいろ歌詞についてかんがえた。

「キミ」はいつも置手紙を置いてふらっと放浪してしまう旅人みたいな人。
そういう「キミ」を待つ恋愛に疲れて、「ひとりでもだいじょうぶ」っていう確信はまだ持てないけど、「キミ」をもう待つ暮らしはやめることにした。
そういう、これも失恋、の歌。

わたしはそうおもったから。
「キミ」はそんなふうに気侭に生きてても、必ず帰るって言えば置き去りにした恋人に安心を与えてるとおもって、そんなじぶんを待ってて「おかえり」って言ってくれる恋人の存在を疑わない子どもじみた人、っておもった。
そういう恋愛は、片方だけがオトナにならなくちゃつづけれないから、オトナ役を押し付けられたほうは疲れるねー、って。

そんな「キミ」から離れる決意がついてよかったねー、って。

でも。

この歌、恋愛ソングじゃなくて、お母さんのこと歌ってるんだよ、って、人から聞いた。

その真偽はほんとのところはわかんないけど、宇多田ヒカルさんの親子の話は芸能ニュースみたいなのでなんとなく入ってくる情報もいろいろあったから、「そーだったんだー」って、そのまま納得しちゃって。

それから、これが入ってるCD探し出して、これは「彼女のお母さんの歌」っておもいながらなんどか聞いた。

そうすると、なんかじぶんの感情がいろいろリンクした。
それで、涙がぽろぽろ出た。

わたしのお母さんは、お父さんがわたしたち子どもを捨てたあとでも、ずっと子どものそばで生きてた。
だけど、お母さんのこころまでが、わたしのそばにいたのは幻想だった、ってわかった出来事があって。
弟のそばにはお母さんのこころはずっとあったけど、わたしからはお母さんのこころはとっくに離れてた。

それを知ってから、わたしもお母さんから離れることにした。
こころを、お母さんから離そうとして、わたしにはもうお母さんは必要ない、ってことにじぶんの軌道修正をした。

わたしも、「ひとりでもだいじょうぶ」なじぶんにしてった。

それなのに、お母さんは治らない病気になって、わたしはまたお母さんの娘、に戻った。
最期の数か月は、お母さんとわたし、いい関係だったとおもう。
それで、お母さんは息をひきとる瞬間、わたしと手を繋いでて、最期にぎゅっとその手、つよく握って、その力がふっとほどけて、それで死んだ。

お母さんの最期に、お母さんの死を見届けたのは、弟じゃなくてわたし、だった。

ずるい、とおもう。
こういう運命に。

わたしはお母さんから離れることができなかった。
わたしは傷ついたはずだったのに、その傷をさいごまで、親に「わたし、傷ついたよ!親のせいだよ!」なんて言えない子どもの役をやめれなかった。
お母さんを失ったあとのお父さんの壊れ方みてると「なんでいまさら。生きてるあいだのお母さんをぜんぜんしあわせにしなかったくせに」って死ぬほどなじりたい。
でも、そういうことをすると、お父さんが傷つくから、わたしは言えない。

わたしは「お父さん、いまさら、お父さん面して、わたしたちとかなしみを共有しないでよ!」って言いたいけど、そんなことはたぶん、死ぬまでぜったい言えない。

わたしは親から離れて、「遠くにいるけど、親のしあわせは願っているからね」っていう子どもになりたかった。
そういうきれいな子どもにも、わたしはなれなかった。

お母さんが死んで、ほんとにかなしくて、さみしくて。
なんで、じぶんがさみしがってるのか、じぶんがわかんない。
わたしがお母さんを失ったのは、もっとそのまえだったはず。
わたしはとても傷ついて、そのじぶんを必死で立て直した。

なんで、そのじぶんが、またお母さんを失って、メソメソ泣いてるの?
なんで、こんなにわけわかんない喪失感に襲われて、その喪失に怯えて、じぶんのこころからなにもかも元気を消失させちゃってるの?

お父さん、お母さん、わたしを愛したふりをしないで。
愛してなかったなら、死ぬまでそういう態度をちゃんと貫いて。
親の義務と愛をごっちゃにして、それをわたしに「親の愛」に見せかけないで。

そういう、地団駄踏みながら泣きわめきたかったじぶんの小児的な衝動も、もう爆発する火口を塞がれて、死火山みたいに沈黙する。

わたしはどんな手紙もいらない。
だれから、も。

どんなきれいなコトバが書かれていても。
それが愛のコトバにみえても。
そういうものを書き連ねたものを、わたしを傷つけないように、なんていうこころでパッケージして、わたしに受け取らせて、わたしにそれをありがたがらせる。
そして、わたしをだいじに扱ったつもりになって、わたしから離れる。
そんな手紙は、生涯、だれからももらいたくない。



月のある夜は、海がキラキラ光る。
そういう光景をなんども見たから、わたしは、月光ってぜったい暗い海にキラキラした光の破片を落とすものなんだとおもってた。

でも、そうじゃないことを知って、ちょっと衝撃だった。

このまえの満月の晩。
あんなにまんまるのおおきな月が夜空の真上にぷかぷか浮かんでるのに、その真下に広がる海は一辺の光も落ちてなくて真っ暗だった。

あのまんまるなお月さまはどこを照らしてるの?
海は真上に満月が出てるのを気づいてないみたいに、目をこらさないとそこに海があるのもわかんないぐらいの真っ暗。

どうして?
って、すごいナゾ。

いつもただの真っ暗な闇がひろがってるようにしかおもえなかった崖の下が、月灯りでものすごい岩場の海になってるのをはっきり見たこともある。
月光、ってすごい、っておもったのに。

月灯りで夜でも影ができることも、わたしは知ってる。

それなのに、あの晩はなんで、海が少しもキラキラ光ってなかったんだろ。
真上の満月の月灯りが、地上のどこにも反映されてないかんじ。

だれか科学的に説明してー、って、ホンキでおもった。

なぜ、満月が海面を照らす月夜とぜんぜん照らさない月夜があるの?

その夜の地表は、月光をぜんぶ吸いとっちゃう闇に襲われてた。
いつもの夜の闇と区別がつかない人たちにはぜんぜん気づかれていなかったが、その夜の闇はじわじわと地表の光を喰い尽くして光のない世界を拡げていたのだ。

なんていう、ディーン・R・クーンツ的なホラー解説はじぶんでもおもいついた。
わたしが知りたいのは、もっとちゃんとした科学的な解説。



このまえ、村山由佳さんのラジオで流れてて、なんて美しい曲なんだろう、ってうっとり聞いちゃった。
こころがおかしくなってるわたしには、この歌詞は、じぶんに語りかけられてるみたい。



このMVもステキ。
とくに、ふたりがポスターに落書きするとこ!



posted by ぴの at 14:17| オーランド ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする